被爆地に咲くヒロシマのバラ。手前の黄バラはドイツ・エルトビレ市から贈られた「広島平和記念公園」(広島市中区)
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気温30度。暑さに耐えて咲くヒロシマチルドレン(ドイツ・ザンガーハウゼン)
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薄紅に淡黄、かれんなバラ「ヒロシマチルドレン」は暑さに弱い。夏場は葉が落ち、病気にかかりやすくなるという。その姿は、やるせないまでに暑い広島の夏を思わせる。原爆の熱線に皮膚を焼かれ、水を求めてさまよった被爆者の姿が重なる。
晩年になっても東岷さんはバラ園めぐりを楽しみ、年賀状で親しい知人らに報告した
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広島の外科医原田東岷さん(1912〜99年)がバラと出会ったのは、現役の院長を引退した74年の秋。メスをせん定バサミに持ち替え、隠居生活を過ごした市内の自宅で庭いじりを始めた。素人ながら最初に買った10本のバラの苗木のうち、8本が年末まで鮮やかな花を咲かせた。
バラとの対話が楽しかった。医師が患者を診察するように、花の色やトゲの硬さを、見て触って、そして話しかけた。
自宅は後に、「薔薇庵(そうびあん)」と呼ばれた。
「ばらという植物には平和運動を行う能力があるのに相違ない、と私は思うようになった」
著書『ヒロシマのばら』にそう書き記す東岷さんは、生粋の平和運動家でもあった。軍医として中国戦線を転戦し、原爆投下の翌春、廃墟の広島に帰った。姉を含め近親の7人が犠牲になっていた。病院を再建し、被爆者治療に努めた。ケロイドが残るヒロシマ・ガールズ(原爆乙女)の渡米治療に尽力した。被爆地を訪れる外国人を受け入れる「ワールド・フレンドシップ・センター」を運営し、ベトナム戦争で傷ついた子どもたちを日本に招き、治療した。
どうしてバラと平和が結び付くのだろう。
「ピースという美しいバラが世界で4000万本植えられていると知った。そこで私は考えた。もしヒロシマという美しく香り高いバラがあったなら、ヒロシマのメッセージを全世界に運んでくれるのではなかろうか」
東岷さんは、別の著書『ひろしまからの発信』にそう書いている。81年、欧州のバラ園を巡った時、東岷さんは英国で一人の著名な育種家に出会った。ジャック・ハークネスさん。彼もまた、戦争経験者だった。インド戦線で日本兵と相まみえた生き残りだった。
3年後、東岷さんのもとに、新種のバラの茎が届く。被爆から39年目、なぜか、やはり、暑い8月だった。
ヒロシマシリーズのバラを作り続ける田頭さん(広島県佐伯町)
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その「ヒロシマチルドレン」を開花させたのが、広島バラ園(広島県佐伯町)のオーナー田頭数蔵さん(72)。届いたバラの茎から芽を削り取り、野バラに接いだ。秋には早くも、小ぶりの花をつけた。
田頭さんは被爆者である。あの日、広島市内の家を出て東広島の工場に働きに出かけた。混み合う山陽線の列車にぶら下がり、瀬野駅にさしかかったころ、B29を見た。間もなく、せん光。夕方、やっとの思いで自宅にたどり着くと、すぐ隣の家まで焼け落ちていた。弟はとうとう、帰って来なかった。自分も、あの列車を逃して広島にとどまっていたら…。
「焼け野原を花でいっぱいにして死者を弔いたい。それが今を生きる者の願いであり、務め」
チルドレンが誕生した同じころ、田頭さんが独自に交配を重ねた新種のバラも大輪の花を咲かせていた。名付けて「ヒロシマアピール」。81年、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が広島の原爆慰霊碑前で発表した「戦争は人間の仕業です」で始まる平和アピールを、田頭さんは鮮明に覚えていたからだ。
こうして、ヒロシマの名前を冠した一連のバラ「ヒロシマシリーズ」が誕生した。かかわった人たちが一様に戦争の辛酸をなめたのも、あながち偶然ではあるまい。
今、チルドレンは、東岷さんが足跡をしるした場所で、あるいはバラを「平和の使者」と考える人たちのそばで、暑さに耐えながら咲き続ける。東岷さんはしばしば、そんな「子どもたち」にメッセージを添えて各地へ送り出してきた。
「平和がなければバラは美しく咲かず、美しいバラを嘆美する心がなければ平和がない」
ヒロシマシリーズのバラ
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ピースメーカー
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フェニックスヒロシマ
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ヒロシマスピリット
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千羽鶴
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ヒロシママインド
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ヒロシマレクイエム
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名 称 |
色 |
作出者と作出年(敬称略) |
ヒロシマチルドレン |
薄紅に淡黄 |
ハークネス(英国) |
1984年 |
ヒロシマアピール |
紅に白 |
田頭数蔵(広島県) |
85年 |
ピースメーカー |
深紅 |
(同) |
89年 |
レッドヒロシマ |
紅 |
(同) |
90年 |
フェニックスヒロシマ |
ピンク |
太田嘉一郎(福岡市) |
90年 |
ヒロシマスピリット |
黄に赤 |
原田敏行(宇部市) |
91年 |
千羽鶴 |
白 |
田原数蔵 |
94年 |
広島の鐘 |
クリーム色に紅 |
原田一雄(宇部市) |
94年 |
ヒロシママインド |
赤にクリーム色 |
原田東岷(広島市) |
95年 |
レディヒロシマ |
ピンク |
田頭数蔵 |
96年 |
広島平和記念公園 |
黄 |
ニーボルク(ドイツ) |
98年 |
ヒロシマレクイエム |
黒赤 |
田頭数蔵 |
99年 |
これらのバラは広島市の植物公園(佐伯区)や牛田総合公園バラ園(東区)で一部栽培されている |
「反戦の思い」苗床に
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英の育種家との交流で誕生
兄ジャックさんと東岷さんの思い出を語るピーター・ハークネスさ(ロンドン郊外)
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ヒロシマチルドレンの古里を訪ねた。英国ロンドン郊外の町ヒッチンにあるハークネス社の育種場。1994年に75歳で亡くなった作出者のジャック・ハークネスさんに代わり、弟で英国バラ育種家協会長のピーターさん(71)が思い出を語ってくれた。
第二次大戦中、インド戦線で日本軍と戦ったジャックさんは81年、育種場にやって来た東岷さんと戦時体験を語り合った。「犠牲者はいつも市民。二度と戦争はいけない」と意見は一致。「ヒロシマのバラをつくりたい」との東岷さんの提案に「平和の維持には文化が必要。私はバラでそれに貢献したい」と応じた。
3年後の84年、新種の小枝40本を東岷さんあてに空輸し、「生き生きした花は少年のイメージ。ヒロシマチルドレンの名はどうか」と書き送った。「兄は21世紀の世界平和は広島の子どもたちがリードしてほしいいと願っていた」とピーターさんは言う。
その新種はハークネス社が90年ごろまで販売。今は米国の数社が主に胸飾り用に生産している。
「兄は、ドクタートウミンは聖人のようだと尊敬していた。私もそう思う」。93年に広島市や福山市を訪れ、ヒロシマシリーズのバラを目の当たりにしたピーターさんは話す。
ヒロシマチルドレンは、ワイマール近くのザンガーハウゼン市などドイツ各地のバラ園でも咲いていた。日英のほか少なくとも米国、スイス、中国で「ヒロシマの心」を伝え続けている。
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2001.4.29