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「古城のバラ園」で満開の花に囲まれたプッシュさん(昨年6月、ドイツ・エルトビレ)
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バラの海のような花園から、「ばらの父」の笑顔がのぞいた。ドイツ・フランクフルト近郊のエルトビレ市。園芸家ラインハルト・プッシュさん(1931〜2000年)は、30年がかりでつくり上げたライン河畔の「古城のバラ園」からひょっこり現れた。
ドイツのバラ会が選定した「ばらのまち」エルトビレ市。手をかければ必ずそれにこたえるバラの正直さが好きというプッシュさんは、街中に多くのバラを植え、世話をしてきた。欧州でも珍しい、とりでや堀を利用した古城のバラ園には350種、約1万本が咲き、石垣につるバラがのぼる。
紅の「ヒロシマアピール」、ピンクの「ローズふくやま」などのかれんな姿もある。「友好の種をまいたのは天国のドクター・トウミン」。プッシュさんは、青空を見上げた。
1991年夏、「ノーモアヒロシマ」の心をバラに託す平和運動家、広島市の医師原田東岷さん(1912〜99年)が立ち寄った。国際バラ会議出席を前に、ここエルトビレ市を訪れたのだ。
案内したのが当時、市公園部長だったプッシュさん。「被爆地の願いを広めてほしい」。東岷さんから「ヒロシマアピール」など4種を託され、自宅で苗を増やし始めた。
2年後、東岷さんの招きで広島市を訪問し、原爆資料館を見学した。衝撃を受けた。「熱で曲がったガラス、被爆三輪車…。ぞっとした」
プッシュさんにとって戦争は、90年の東西ドイツ統一で過去のものになっていた。しかし以後、東岷さんの分身のように「平和のバラ」普及に努めた。今、ドイツに16ある「ばらのまち」の多くやスイスのチューリッヒ近郊の町にヒロシマシリーズのバラが根付く。
「ところで私のバラがたくさん咲く日本の町を知っているかい」。古城のバラ園から車で15分。新興住宅地にある自宅で、プッシュさんは茶目っ気たっぷりに聞いてきた。
広島を再訪した97年5月、日本の「ばらのまち」福山市に足を延ばした。市中心部のばら公園では、「ラインハルト・プッシュ」と名づけた薄黄色の大輪バラ約100本が迎えてくれたという。
「あんな歓迎は後にも先にもあの時だけ。福山にも城があるし、ばらのまち同士の交流が頭に浮かんでね」。プッシュさんゆかりのバラ「ラインハルト」も今、福山市に咲く。ヒロシマシリーズのバラを作り、ばら公園に苗を供給する広島県佐伯町の育種家田頭数蔵さん(72)が「バラの父」に敬意を表して作った。
私たちがエルトビレ市を訪れたのは昨年6月中旬。プッシュさんは持病の心臓病の手術を控えていた。別れ際、「来年は福山に行くから、ばらのまち同士の交流を進めよう」。肉厚の手で何度も握手を求めてきた。
2週間後、英国ロンドンの滞在先に訃報(ふほう)が届いた。「ばらの父が急死した」と。7月半ば、エルトビレ市に戻り、バラに囲まれた墓地を訪れた。妻のエリザベートさん(68)から聞いた話では、プッシュさんは私たちを見送った後、「日本とのきずなが強まる」と喜んでいたという。
主を失った古城のバラ園にはこの6月、広島や福山ゆかりのバラが咲く「ラインハルト・プッシュ記念花壇」がオープンする。
「ばらのまち同士の交流」は遺言に変わった。
■バラとワインと歴史のまちエルトビレ
中世の城が残るエルトビレ市は「バラとワインと歴史のまち」だ。市内の公共スペースのバラは約2万本。郊外にブドウ畑が広がる。1998年6月、市は「ばらのまち」に選定されて10周年の記念式典で、ドイツバラ生産組合の金賞品種に「広島平和記念公園」=写真=と命名、広島市に贈った。鮮やかな黄色のバラは原爆ドームを望む花壇を彩る。もちろん、エルトビレ市内でも販売され、人気が高い。
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2001.5.6