タイトル小
20. アンネの形見
「アンネの日記」ゆかりのバラが福山市で満開だ。隠れ家生活をつづった少女と、朱色からピンクへと色変わりする花。伝説に彩られたその誕生物語は…
文・杉本喜信 写真・大村 博、藤井康正
*** 開花することなく散った命を悼んで… ***
「日記」から生まれた花
隠れ家の裏庭。マロニエが風にそよぎ、教会の鐘が鳴る。アンネたちは、塔の右に見える、屋根に窓がある建物に潜んでいた(オランダ・アムステルダム)
隠れ家生活に入る直前、13歳のアンネ・フランク(1942年)
当時の様子を再現した隠れ家の屋根裏部屋。窓の向うに裏庭の木が見える(アンネ・フランク財団提供)

 朱色のつぼみはやがて黄色、そしてピンクに変わっていく。「アンネの日記」で知られる少女アンネ・フランク(1929〜1945年)ゆかりのバラは、時の経過とともに多彩な表情を見せる。

 ナチスによるユダヤ人大量虐殺。その犠牲となった150万人ともいわれる子どもたち。バラは、才能を開花させることなく散った多くの命を悼んで作られたという。

左=裏庭に咲いていたつるバラ
上=隠れ家の前を流れる運河。水上バスが観光客を運ぶ
アンネのバラ。つぼみ、咲き初め、満開と花色が変わる(福山市ばら公園)

 色変わり種 日・中に先祖

 バラの色変わりは、日射などによって色素が沈着するためと考えられている。バラに詳しい広島市植物公園の在岡孝行技術員によると、中国・四川省に自生するコウシンバラには、淡黄から赤黄に変わるものがある。現代バラのほとんどはコウシンバラの遺伝子を引き継いでいる。交配を重ねると古い特徴が突然現れることがあるという。
 また「アンネのバラ」を含む色変わりバラの多くは、日本の自生種ノイバラを先祖に持つ中輪系。ノイバラも白から薄ピンクへの変化が観察されていて、その影響を指摘する育種家もいる。

 そんな「アンネのバラ」には、伝説がある。一家が潜んでいたオランダ・アムステルダムの隠れ家の庭に咲く野バラの改良種というのだ。息を殺し、一切、外に出られない生活は13歳から2年間。日記にバラは登場しないが、話が本当なら、アンネは野バラを心の慰めにしていたに違いない。私たちはアムステルダムに向かった。

 「マロニエの大木が風にそよぐ。教会の鐘が響く。中心部の運河沿いにある隠れ家の裏には、緑豊かな庭が広がっていた。

 百棟ほどの建物にぐるりと囲まれた幅、奥行きとも100メートルほどの空間。住民の一人、建築家のベルガー・ファスビンダーさん(58)に頼んで入れてもらった。

 裏から見ると、3階のアンネたちの寝室の窓はよろい戸が閉めてある。「日記」に「日が当たるお気に入りの場所」として登場する屋根裏部屋も庭を見下ろすのは難しそうだ。

 「野バラの話は初耳だ。仮に咲いても、アンネが見るのはまず無理だったろう」。隠れ家を管理するアンネ・フランク財団の広報担当トン・マスシニさん(40)は明言した。

 4階建てで床がぎしぎし鳴る隠れ家は、ほぼ当時のまま。年間約60万人が訪れる記念館になっている。調査部門もある。伝説は事実ではないらしい。

 「日陰だから野バラは無理だけど、何年か前から、つるバラが育っている」とベルガーさん。見ると、外壁に沿ってピンクの小さな花が数輪。日光を求めて上へ上へとつるを伸ばしていた。

 「野バラ改良説は、とてもよくできた話だ。そのままにしておく方がいいかもしれない」。「アンネのバラ」の作出者、ベルギーの育種家ウィルフレッド・デルフォージュさん(71)は電話口で話した。バラ愛好家をたどって連絡先を調べた。

 アントワープ郊外でバラ苗生産を続けるデルフォージュさんは1947年、出版されたばかりの『日記』を読み、空や星、木、鳥などに対するアンネの敬けんな思いに感動。父親と一緒に戦後の名花「ピース」系統の園芸種をかけ合わせ、8年かけて会心作を作り出した。

 隠れ家がナチスに見つかり、強制収容所で15歳で病死したアンネは女優や作家になることを夢見ていた。隠れ家で彼女がつくった一編の童話がある。そこには、「花の女王」としてバラが登場。自分自身をバラに投影して、「私もバラみたいにうぬぼれているかしら」と書いている。

 朱色、黄、ピンクと色変わりする花姿に、デルフォージュさんは「アンネの豊かな才能の再生を感じた」と振り返る。

 アンネの父親オットー・フランク氏(1889〜1980年)の許しを得て、「アンネフランクの形見」と名付けたのは1960年のこと。当時は、「アンネにささげた神聖な花だから」と販売を禁じた。そのため、欧州でも一般への普及は品種登録の期限が切れた数年前からという。

 「日が十分に差し込む所で育ててください。そうすれば輝くような花が必ず咲きます」。デルフォージュさんは何度も繰り返した。


「平和の象徴」広めたい

福山の「スモールハンズ」 接ぎ木で増やし 全国へ

アンネのバラの接ぎ木苗を作る森田さん(中央)ら「スモールハンズ」の子ども たち

 ことし1月、グループは記念館の周りで育つ約50本のバラから小枝を切り取り、2日がかりでつぎ木苗約100本を作った。希望する学校などに「平和のシンボル」として贈るためだ。

 記念館のバラは、アンネの父オットー・フランク氏が1970年代に京都のキリスト教会に贈った苗が元。20年ほど前、隣接の教会が小枝を譲り受け、栽培してきた。

 苗の普及は97年、横浜市の外国人墓地の求めに応じたのをきっかけに本格化。翌年から「スモールハンズ」が平和運動の一環として増殖を担当し、これまで東京から沖縄まで71カ所に計約80本を贈っている。

 当初からのメンバー、広大付属福山高校2年森田慶美さん(16)は「差別や戦争のために15歳で死んだ女の子がいたことを忘れないでほしい」と訴える。

 森田さんらメンバーは、接ぎ木苗を鉢植えにして自宅に持ち帰り、毎日水を与えて大切に栽培。夏以降の贈呈に備えている。

2001.5.27

BACK INDEX NEXT