■復興支え哀歓ともに
コンクリート建造物の寿命は五十年とされる。広島市民球場はことし四十七歳。柱はひび割れ、雨漏りする。土砂降りの後、グラウンドの水たまりは二、三日消えない。電光スコアボードの電球は製造中止になり、在庫も尽きた。延命のため、昨春から一般利用者は黒板などで代用している。
財界が建設費
市民球場は、広島カープがナイターができるようにと造られた。球団にも市にも金はない。建設費約二億六千万円は財界が寄付した。「市民球場とカープ球団は密接不可分の関係にあることを考慮し、球場の収益の適当額を球団の育成補助に充てること」。財界と市が交わした覚書にはそう明記してある。
「最も都心に近く、お客が集まりやすいから、今の場所になった」。熱心なファンから球団職員になり、建設準備に奔走した岡本昌義さん(86)=南区=の説明は明快だ。
初ナイターは一九五七年七月二十四日。当時の定員を六千人超える二万三千人の前で、カープは阪神に大敗した。「選手はコチコチだった」と当時の新聞は伝える。
球団が励みに
五九年には、年間入場者数が市の人口の二倍に当たる八十六万人まで伸びた。原爆で打ちのめされた市民にとって、カープは弱くても、かけがえのない心の支えだった。
球場の南西には、平和記念公園が広がる。鹿児島県出身で六五年に投手として入団した外木場義郎さん(58)=西区=は、公園によく通った。
初勝利こそ、ノーヒットノーランだったが、その後は三年間で四勝。チームも弱い。球場入りの前、川辺に立ち、原爆ドームを見つめた。原爆資料館に何度も入った。
「大変な苦労をした広島の人たちが頑張ってる。自分の悩みは微々たるもんやと」。六八年、外木場さんは完全試合を達成し、二十一勝を挙げる。カープも初めてAクラス入り。七五年には最多勝、沢村賞に輝き、初優勝に貢献した。
ドームに近いせいもあり、試合のない日も修学旅行生が球場を訪れる。年に三十〜四十組は下らない。一塁ベンチからグラウンドに出ると、「わー、大きい」と驚きの声が上がるという。
見えない将来
それにしても、なぜ「市民」球場なのか。「市民のカープを育成するための球場じゃから。自然に皆口にしよったし、異論もなかった。そういやあ、『市営』球場とは誰も言わんかったねえ」と岡本さんは振り返る。
一昨年以降、JR広島駅に近い東広島駅貨物ヤード跡地(南区)にカープの新球場計画が持ち上がった。「市民球場は広島野球の殿堂。残してほしい」。入船信之・球場管理事務所長のもとに、保存を望む声が数多く寄せられた。
中国新聞の読者アンケートで、「広島は城下町であり、市民球場下町」と書いた人もいる。しかし、陰りも見える。昨季のカープの観客動員は九十四万六千人。十三年ぶりに百万人を割った。カープの新球場案も白紙に戻った。
戦後、広島人と哀歓をともにしてきた都心のモニュメント、市民球場の将来はまだ見えない。
2004.1.6
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