■街と暮らし 彩る満ち干
明治、大正、昭和をまたぎ、広島市内の世情を活写した「がんす横丁」(一九七三年刊)には、川の逸話が数多い。
土手の桃花が色づく春に、満潮を待ち火ぶたを切った京橋川のボートレース。俳人正岡子規が柳橋かいわいで詠んだ一句「広島は柳の多きところかな」。上流の中国山地から木材を、瀬戸内海の島々からは海産物を集めて栄えた舟運と名残の雁木(がんぎ)…。

川通り命名運動の経過を伝える立て札。潤い豊かな都心の魅力再発見を願う(中区の元安川)
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明治生まれの著者薄田(すすきだ)太郎(一九〇二〜六七年)は、川の街広島に寄せる感慨をこんな風に振り返っている。
「河原ベース」
<水の引いた川が、こどもたちの野球場になって、草野球のことをいまもって河原ベースというほどだが、そのころの野球気分が、そのままいまの市民球場のスタンドに足を運ばせているのではないだろうか>
「河原ベース」の言い習わしこそ途絶えたものの、広島都心を縫う六本の川は今も、満ち干を繰り返している。最大で四メートルほどにまで達する干満差。このリズムが、街の息遣いだ。
「満ち潮と引き潮で、川の景色がまるっきり変わる。都心でハゼが釣れ、シジミも掘れる。これが、広島らしさよぉね」。図説戦後市史「街と暮らしの50年」(一九九六年刊)を編集した市文化財団の松林俊一課長(59)は、川の活用に期待を寄せる。「浅瀬や桟橋にきたら、にょきっと脚を伸ばして動きだす水陸両用船がほしい。干満差の大きな広島の川ならではの、歩ける船。面白そうじゃろ?」
行政も後押し
都心再生の本紙アンケートでも、「陸上の交通渋滞の解消に」「観光向けに」と水上交通のネットワークづくりを推す声が目立った。
川土手も、道として見直されている。渋滞や健康ブームのあおりで自転車通勤やウオーキングが盛んになったからだ。治水一辺倒だった国や自治体の河川行政も、水辺の景観や親水性を気遣う姿勢に転換。車道で寸断されていた土手道を橋の下にくぐらせるなど、サイクリングや歩く楽しみを後押しする。
一昨年春、東京から十四年ぶりに帰郷した広島市佐伯区の会社員隆杉純子さん(42)は驚いた。「こんな素晴らしい道が、広島にあったんだ」。都心を潤す川沿いの風景が一変していた。そぞろ歩きが楽しい。
川通りに命名
川通りの名付け親になりませんか―と、命名を世間に呼びかけたら、千通もの応募が集まった。広島工大四年の西鶴英之さん(21)は共感し、事務局も手伝う。「名前が付けば、川にも通りにも愛着がわくし、近くなる気がするでしょ」
今回は、原爆ドーム脇の元安川左岸など三カ所の川通りに命名する。名前は、人々の口の端にのぼって初めて、いのちを吹き込まれる。水の都広島にもまだ、名も無い川通りがあまたある。
2004.1.7
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