タイトル「ひろしま 都心のあした」
  パート 3  水辺を生かす

    ■ 景観のトップランナー ■
      「治水」から「くつろぎ」へ
「北村教授」
完成から20年たった基町環境護岸を再訪した北村教授(広島市中区)
地図「基町環境護岸」

■基町護岸 市民と20年

 玉石積みの岸辺は豊かな陰影を浮かべ、水際に柔らかな曲線を描く。スロープ状に整えられた芝には、腰を下ろしてゆったりくつろげるように―との心配りがこもる。

 広島市中区の本川左岸に広がる長さ約八百メートルの基町環境護岸。「平たんでなく、表情豊かな外観と機能を持たせたかった。知恵を絞ったもんです」―。山梨大大学院の北村真一教授(53)はそう言って水際の玉石に触れた。

 東京工業大助手だった一九七九年、中村良夫・同大名誉教授(65)=当時教授=らと設計した。治水一辺倒だった固定観念を破り、親水機能を強調したデザイン。八三年の完成から丸二十年を経た今年、土木学会(本部・東京)が主催する「デザイン賞」の特別賞を受ける。

被爆石も使う

 二段構えの石積みは、川に落ちてもよじ登れるように配慮した。「敷石に被爆石を織り込み、まちの記憶を刻んだ」。五月の授賞式を前に再訪した北村さんは、設計の意図を振り返った。

 水辺を意識した広島市のまちづくりは、戦後間もない五二年の広島平和記念都市建設計画から始まる。平和記念公園と並ぶ復興の柱として、河岸緑地づくりが決まった。

 被爆で家を失った人たちがこの地に連ねていた住宅群は、高層アパートへの移住を進めて取り払った。民家や料亭が並ぶほかの川沿いでも住み替えが進み、河岸は誰もが自由に出入りできる公共空間へと様変わりした。

 国はしかし、水辺の使用を公共性の高い場合に限定した。営利活動の抑制などの治水優先策が、にぎわいづくりの妨げにつながったとみる都市計画の研究者もいる。

 広島市の戦後復興に詳しい広島国際大の石丸紀興教授(63)。「『公共』を目指したまともな発想が、いつしか『官』の意味合いが強まり、『共』が薄れた。大きな犠牲を払って築いた空間だから、もっと活用の仕方があるはずだ」と指摘する。

 河川行政も徐々に変わり始めた。水辺を「憩い」「美観」の場と位置付ける動きである。土木学会事務局は「洪水や高潮を防ぐだけの役割だった護岸に、別の意義を持たせたのが基町の護岸。時代の先陣を切った功績は大きい」と言う。やっと時代が追い付いてきた。

愛称「ポプラ」

 基町環境護岸には一月、「基町POP'La通り」という名が付いた。市民グループが募集し、護岸に一本残るポプラにちなんだ愛称だ。護岸の玉石には、愛や友情の言葉を書き付けたものも。大半が白の文字。落書きする人なりのルールができているのだろう。

北村さんは「二十年前には、こんなにも親しまれる護岸になるとは思いもしなかった」と喜ぶ。中村さんは「俳句で言えば、デザインは発句にすぎない。河川像、河川文化を市民がどう描くかが大切だ」と、これからの展開に思いをはせる。

2004.3.25