■枠を超えて模索始まる
広島市中区の被爆建物、旧日本銀行広島支店で三月半ば、広島県内の大学で建築を学んだ学生の卒業制作展があった。広島工業大を卒業した津田野恵さん(22)は、元安橋東詰めに地下二階、地上三階の美術館を建てるアイデアを出した。
元安川は、平和記念公園と、中四国随一の繁華街である本通り商店街、紙屋町、八丁堀地区を東西に分ける。津田野さんの案は、建物の一階を自由に通り抜けできるY字形の通路とした。三つの出入り口は、平和記念公園と原爆ドーム、本通りに向いて延びている。
交わりの起点
「慰霊とにぎわいのゾーンのつなぎ目で絵を見て、感情を鎮めてから次の目的地へ向かってもらう仕組み。どちらも広島を象徴する場所だから、一つにつなげたいと思った」と津田野さん。現地に立って、アイデアがわきあがったという。
作品は「平和卒業設計賞」を受けた。審査にあたった広島大大学院助教授の岡河貢さん(50)は「広島の過去と現在のシンボルとも呼べるエリアを、コミュニケーションの場に作り替えた。既成の枠にとらわれない、新しい都市空間像を生み出している」と評価する。
平和記念公園には年間百万人以上が訪れる。しかし、本通り商店街や八丁堀地区には、うちの六人に一人しか立ち寄っていない。交わりにくい今と過去をつなごう、というのが津田野さんの発想だが、そう簡単に気持ちは切り替わらないという声もある。
コンサートなどのイベンター、夢番地広島オフィス(中区)の高波秀法さん(35)は年に十回程度、外国人アーティストを平和記念公園に案内する。最も記憶に残るのは、英国のロックスター、エルビス・コステロだ。
ドームに衝撃
一九九一年夏。コステロ夫妻と三人で原爆資料館をじっくり回った後、原爆ドームへ。夫妻は立ちつくし、抱き合ってひたすら泣いた。「とても声をかける雰囲気ではない。アーティストの受ける衝撃は、われわれの想像以上。スイッチを切り替えるように、気持ちは替えられないと思う」と高波さん。公園内では日常的に、涙を流す外国人の姿を見る。
元安橋東詰めでは週末、「水辺のコンサート」が続く。主催者は、隣接する「祈りの場」に配慮して、音量を「最小限」にしていた。
原爆の子の像のそばで、打楽器の歯切れのいいリズムをかすかに聴いた長野県千曲市の農業山崎静江さん(55)は首をひねる。「慰霊の地にふさわしい音楽かどうか…」。音量だけでなく、ジャンルでも受け止め方は一人ひとり異なる。
広島市は昨秋、原爆ドームや原爆資料館など平和記念施設のあり方について、市民や国内外の有識者から意見を募った。被爆者の高齢化が著しい中、来年は被爆六十周年を迎える。
ヒロシマの記憶を風化させないためにも、過去と現在そして未来をどうつないでいくのか。新たな視点から都市空間のあり方を議論し、模索する動きが芽生え始めている。
2004.4.6
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