特集 瀬戸内海国立公園指定(1934年3月16日) 70周年記念
「ふるさとの海」

 今は昔 海と人の物語

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景観生業

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 楽々園

 楽々園の海水浴場(49年、広島市佐伯区)。広島電鉄の前身の広島瓦斯電軌(がすでんき)が三六年、宮島線楽々園駅の新設に合わせて駅前に遊園地を開業し、南側に海水浴場も設けた。
「楽々園」現在
現在の楽々園。道路の南側(左)が海だった

 関東や関西の私鉄が、利用促進のため沿線に本格的な遊園地などを設置する手法を取り入れた。「海水浴場一帯は今でいうリゾート地。胸がドキドキするほど、あこがれの海だった」。当時、広島県戸河内町に住んでいた主婦石川多恵子さん(63)は振り返る。

 そんな海水浴場も宅地造成などのために埋め立てられ、六四年に姿を消した。石川さんはその四年後の六八年に造成地を購入。楽々園の住人になった。

「楽々園海水浴場」49年

 上蒲刈島

 かつて小さな島には、漁港があっても、定期船が接岸できる岸壁や桟橋のないところが多かった。島から客や荷物を沖合まで中継する「通い船」=写真、55年、広島県蒲刈町宮盛=が各地でみられた。

 定期船が到着する時間を見計らい海上で待機していた。島で切符を売る業者は回漕(そう)店と呼ばれ、通い船の運航も任されていた。「海が荒れると双方の船が揺れ、乗り移るのが大変だった」と平加知哉さん(78)。手こぎ船で三、四十メートル沖まで出ていた時代を懐かしむ。

 六〇年代後半には港湾施設の整備が進み、通い船は次々と姿を消した。さらに、橋が建設されて地続きになった島では定期船の減便、廃止が相次いだ。

「上蒲刈島」55年

 豊島
「豊島」55年

 豊島(てしま)(香川県土庄町)の丘陵地で放牧していた乳牛(55年)。戦後、牛乳が高値で取引されていたこともあり、乳牛を飼う農家が徐々に増加。六〇年代のピーク時には百五十戸が二百頭を飼育していたとされ、瀬戸内海随一の「乳の島」と呼ばれた。現在でも五戸が約百三十頭を飼育する。 「豊島」現在

 戦後の食糧難が続く四七年、牛乳の供給が受けられる島内に乳児院「神愛館」が開設された。現在も、三歳までの十五人が暮らす。館長の木俣努さん(69)は「施設の子どもにとって島はまさに母代わり」。乳の島の伝統は今も受け継がれている。

 その後、のどかだった島に産業廃棄物が不法に持ち込まれ、「ゴミの島」(98年)になってしまった。

 産廃の不法投棄が始まったのは八三年ごろから。車の破砕くずや焼却灰などが積み重ねられ、近くの岩場やがけに黒い汚水が染み出し、汚染は海にも広がった。

 産廃の総量は六十六万トンに達し、大きな社会問題に発展した。住民たちの地道な運動が実り、二〇〇三年から香川県による島外運出処理が始まったが、量があまりに膨大なため事業は十年間続く見通しだ。

2004.3.16


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