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■特集 ボスニア・ヘルツェゴビナ編 紛争を超えて
踏みにじられた五輪の街 競技場に砲弾の雨 '05/2/7


 教会、モスク、ホテル…。建物の壁に弾痕が残る。首都サラエボの街並みは今も、激しい包囲戦の跡を刻む。

 サラエボは、一九八四年の冬季五輪開催地として知られる。紛争が始まった当時の人口は約五十万人。多民族が共存していた山あいの平和都市は九二年四月、突然、主要民族の一つであるセルビア人勢力に包囲された。

 四方の丘には戦車二百五十台、迫撃砲百二十門が並び、砲弾の雨を無差別に降らせた。建物は崩れ落ち、路上の市民は狙撃手の標的となった。

 市の東北部にある「ゼトラリンク」。五輪で閉会式が開かれたアイススケート場は同年六月、約九百発の迫撃砲弾を受けて大きなダメージを受けた。地階には家を焼かれた千百人が避難していたが、幸い無事だった。

 警備主任のミズドラク・ネルミンさん(44)は、砲撃中も必死でスケート場の備品を運び出した。「素晴らしい思い出の詰まるリンクが変わり果てた姿に、職員は泣くしかなかった」と振り返る。

 リンクにはその後も難民が寝泊まりした。行き場所とて、ほかになかった。砲撃は続いたが、ネルミンさんらは職場を捨てなかった。外部と寸断された街ではガソリンが不足していた。職員は毎日、徒歩で通勤した。

 約五百メートル離れた北側の丘からも狙われた。職員は丘の南側にある地下駐車場入り口から入り、空気ダクト沿いの通路から事務室へとたどり着く。「電気がなく、通路は真っ暗闇。そんな日常が想像できますか」とネルミンさん。電池は貴重品だったので懐中電灯も使えなかった、という。

 包囲が完全に解けたのは、三民族による和平協定締結三カ月後の九六年三月。ネルミンさんは四年にわたる包囲戦で同僚十一人を失った。

 悲劇はリンク周辺だけでなく、サラエボの街一帯で繰り広げられた。生鮮市場では六十七人が一度に亡くなった。そのそばの市電が走る交差点では四十三人が殺された。沿道のビルの上階に狙撃手が潜む目抜き通りは「スナイパー(狙撃手)通り」と呼ばれるようになった。

 民間調査では紛争中に犠牲となったサラエボ市民は一万人余。手足を失うなど負傷者は五万人に達した。

 リンクは欧州連合などの支援で九九年にほぼ元通りに再建された。冬季は延べ七万人の家族連れらでにぎわう。が、隣接のサッカーグラウンドは今も、犠牲者の墓地になったまま。数え切れぬほどの白い墓標が並ぶ風景は、二度と元に戻る日はない。

【写真説明】紛争犠牲者の墓地から望むサラエボの市街地。かつてはこの丘からセルビア人勢力が迫撃砲などを無差別に撃ち込んだ


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