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被爆少年に託され 遺品定期入れ届けたのは父 '04/8/5

広島の西さん、遺族と初対面

 原爆で倒壊した横川駅(広島市西区)で焼死した旧制崇徳中生の木島和雄さん=当時(15)=が残した定期入れを保存してきた姉の広島県宮島町、舩附小子(ふなつきさよこ)さん(81)が四日、弟が炎に包まれる寸前に形見を託した警察官の遺族と原爆資料館(中区)で初めて対面した。中国新聞の記事がきっかけで消息が分かった。少年が語った最後の言葉が五十九年ぶりに伝えられた。

 寄贈のため資料館を訪れた舩附さんを、広島市安佐北区可部の西義和さん(75)が待ち受けた。当時、横川駅前派出所で勤務していた父の故・倉二さんから、横川駅で亡くなった少年のことを聞いていた。  

 倉二さんが家族に口を開いたのは被爆から三日目。「『助けて』との声で駆け付け、下敷きになっていた崇徳の生徒を何度も助けようとしたが…」。父は当時四十五歳。息子と同年代の少年を助けられなかったことを悔やんでいたという。

 西さんによると、炎が迫る中、倉二さんが「許してくれ。米英を恨んでくれ」と語り掛けたのに対し、少年は取り乱すことなく「ありがとうございました」と定期入れを差し出したという。

 しかし、父から話を聞いたのは一度だけ。終戦後に遺品は何らかの方法で木島さんの遺族に渡したものの、生涯の悔いとしたためか、九十二歳で亡くなるまで二度と口にしなかった。舩附さんも、弟の最期の詳しい様子や、遺品が戻った経緯は聞かされないままだった。

 定期入れを前に西さんの話を聞いた舩附さんは「いろいろなことが分かった。お父さんは、本当によくしてくれた」と言葉を詰まらせた。

 自身、被爆した西さんは父から聞いた話を昨年から地元の小学校などで証言している。定期入れの寄贈を報じた記事を見て舩附さんに連絡を取った。「父だけではなく私自身ずっと気になっていた。胸のつかえが下りた気持ちです」と感慨深げだった。

【写真説明】木島和雄さんが父に託した定期入れを前に、最期の様子を船附さん(右)に話す西さん=4日、原爆資料館(撮影・田中慎二)


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