社説・天風録
(社説)被爆者の願い 語り継ぐ使命を担って '05/8/1

 忘れたくても消えない記憶がある。忘れたようでも鮮明によみがえる記憶がある。原爆投下から六十年。ヒロシマの被爆者は今なお「八月六日」と生き続ける。

 広島市中区の河野きよみさん(74)はこの夏、被爆体験記を平和記念公園の追悼祈念館に収めた。歌十七首を交えた手記のタイトルは「十四の夏に見た地獄」。

 あの日、爆心地から約三十五キロ離れた白木町(安佐北区)の実家で爆発音とともにむくむく広がる巨大な雲を目撃した。翌日、姉の消息を捜すために市内を母と歩き回った。つまずいた死体の感触や、がれきの熱さを今も覚えている。

 放射能におびえて生きてきた。ただ、直接被爆したわけではない。苦しみながら息を引き取った人々に何もしてあげられなかったという負い目もある。かろうじて助かった姉すら何も語らない。だから体験を書いたり、話したりすることをためらい、沈黙を押し通してきた。

 きっかけは七年前。大阪で中学教師をする長女の言葉だった。「修学旅行で広島を訪れる生徒たちに見たことを話してほしい」。一人でも聞いてくれるのなら―そんな気持ちで語った。

 後日届いた生徒たちの感想文。証言することに確かな手応えを感じた。最近は体がだるく、耳も遠くなった。だが、精いっぱい命の大切さを訴えることが生き残った者の使命だと河野さんは考えている。

 六日は、六十年前に姉を捜した広島赤十字・原爆病院に向かう。ゲートルを巻いた旧制中学の生徒たちの遺体が玄関前の花壇に積み重ねてあった。その様子を描いた絵が「原爆の絵碑」として披露されるからだ。除幕式には小学生の孫二人と一緒に出席する。

 手記や遺品などを通じ、「あの日」を伝える被爆者が増えている。被爆者であることに苦しみ、迷い、それでも表に出る被爆者には頭が下がる思いだ。

 広島、長崎市の原爆資料館など四館は来年三月末まで、原爆犠牲者の遺品や被爆体験記の収集を進めている。広く呼び掛け、貴重な資料の散逸を防ぐ試みを推し進めたい。

 被爆者に残された時間は少ない。平均年齢は七十三歳を超えている。中国新聞社が先ごろ実施した被爆者アンケートでは、九割が「被爆者であることを意識している」と答えた。十年前より10ポイントも増えている。高齢化による健康不安が被爆者としての意識を強めているようだ。

 被爆者の数も加速度的に減っている。被爆者健康手帳を持つ人は、今年三月末時点で二十六万六千五百九十八人。昨年に比べて七千三百二十人減った。今年は原爆詩人の栗原貞子さんや原爆投下当日、広島の惨状を撮影した元中国新聞社カメラマン松重美人さんらの悲報も相次いでおり、悲しみが募る。

 厚生労働省は今秋、十年ごとに続けている被爆者実態調査に取り組む。注目すべきは、今回初めて在外被爆者を対象に加えることだ。国内以上に大変な苦労を強いられたであろう在外被爆者たち。実数さえ確認されていない。手厚い支援で報い、被爆の実相を明らかにしたい。

 冷戦終結後、核保有国は増え、テロの脅威も現実となった。湾岸戦争やイラク戦争で大量に使われた劣化ウラン弾によるとみられる放射線障害の健康被害も広がっている。核兵器の被害をあらためて実感することが欠かせない。紛争地や核保有国を訪れた「広島世界平和ミッション」の報告が示すように、被爆者の証言はとりわけ大きな意味を持つ。


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