中国新聞社
'13/8/5
【社説】原水禁運動と原発問題

 連合、原水禁国民会議、核禁会議による「平和ヒロシマ大会」がことしは規模を縮小して連合の単独主催になり、きょう開かれる。原発問題をめぐる意見対立に起因するという。被爆60年の年から毎年開催されていた大会だけに残念でならない。

 原水爆禁止運動は1954年の第五福竜丸事件をきっかけに、東京・杉並の主婦の署名運動から始まった。核実験停止の一点で一致し、広島・長崎の被爆者の援護にも取り組んだ。

 だが政治の影響が強まるにつれ、運動から離れる被爆者や市民も少なくなかった。「いかなる国の核実験にも反対する」かどうかで紛糾したことなど、ポスト冷戦の今では信じがたい。

 原子力の商業利用については原水禁と核禁会議の間でスタンスの違いがもともとあった。原水禁は86年のチェルノブイリ原発事故を境に「脱原発」を明確にし、核禁会議は60年代初頭の結成以来、推進を掲げてきた。

 それでも90年代、発足したばかりの連合を扇の要とした両者は被爆者援護法制定を求める運動で共同行動に取り組んだ。意見の違いはあっても、急がれるべき問題の解決では一致点を見いだしていたのだ。

 なぜ今になって溝が広がっているのだろうか。大震災以降、原発をめぐる日本の現実が、それまでと全く変わってしまったことと密接に関係しよう。

 先頃も汚染水の海洋流出が明るみに出たように、福島原発の事故処理は東京電力の不手際もあって困難を極めている。除染も思うように進まず、避難している被災住民は帰還のめどさえ立っていない。にもかかわらず安倍政権は原発の再稼働や海外輸出に前のめりだ。原水禁はこれに批判を強めている。

 だが、決して「水と油」ということでもなかったはずだ。たとえば94年から97年まで、原水禁広島大会ではエネルギー問題をテーマにした公開討論会が開かれた。原水禁の呼び掛けに応じ、立場が異なる電力総連の幹部も登壇したことがある。

 原水禁が2002年にまとめた反核運動史によると、議論は必ずしもかみ合わなかったが、ライフスタイルの転換や省エネ、新エネルギーの開発といった点で一致をみた。プルサーマル計画をテーマにした年には、この計画の議論が技術的にも社会的にも不十分であることが双方で確認されたという。

 その後、日本の核燃料サイクルの行き詰まりは、さらに明白になった。使い切る当てのないまま核兵器の材料に転用可能なプルトニウムをため込むことは、核拡散防止の面でも重大な問題をはらんでいよう。

 ならば、運動が今、向き合うべき課題は何だろうか。

 震災後の危機的な現実を踏まえれば、原子力の「平和利用」を問い直すことに踏み込まざるをえない。核兵器つまり原子力の軍事利用に警鐘を鳴らしてきたヒロシマ、ナガサキは新たに重い荷を背負ったといえよう。

 現下の危機はもはや、イデオロギー論争の域を越えている。脱原発に向かうなら、代替エネルギーは、地球温暖化対策は、という疑問も出よう。

 もう一度、この国の原子力政策をめぐって政策論議の場を設けてはどうだろう。むろん、福島の人の心情をくむ議論でなければなるまい。


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