中国新聞社
'13/8/7
地下室で再会し、互いに「頑張ろう」と誓った 袋町小で被爆した友田さん

 米国が1945年8月6日、広島市に投下した原爆はあまたの命を奪い、残された者を絶望の底に突き落とした。親を失い、荒波に放り出された子ども。一家の大黒柱を奪われた妻。人々は、困苦を極めた戦後を生き抜いた。「もう誰にも、同じ思いをさせたくない」。被爆68年の6日、被爆地を平和の祈りが深く包んだ。

 ▽「奇跡の3人」唯一の健在

 友田典弘(つねひろ)さん(77)=大阪府門真市=は、袋町小平和資料館を初めて訪ねると目頭を何度も拭った。爆心地からわずか460メートル。資料館に残る地下室で奇跡的に助かり、流転の人生を強いられた。

 「げた箱がある地下室で靴を脱ぎかけた時にやられたんです」。袋町国民学校4年生だった。深さ3メートル、天井の厚さ約30センチの地下室が命を分けた。大手町(中区)の自宅から一緒に出た2年生の弟幸生さん=当時(8)=は先に階段を上がった。

 やはり地下室にいた級友とはい出ると、校庭は「黒焦げの人だかり」に一変していた。火炎の中を級友と手を取り合って逃げた。

 母タツヨさん=当時(30)=も見つけられなかった。下宿していた韓国人に伴われて45年秋、対馬海峡を渡る。

 日本の植民地統治から解放間もないソウルには、親を失った「仲間」が多数いた。市場で使い走りをして言葉を覚えた。「目の前で銃弾が飛び交った」朝鮮戦争も生き延びた。「仲間は『運が強い』と言いましたが…」。望郷の念は消えなかった。

 市場で知り合った少女の母が、自身は忘れた日本語で帰国を願う手紙を何度も送ってくれた。国交が途絶えていた60年にかなう。広島へは戻ったがなじめず、在日韓国・朝鮮人が多い大阪に出た。

 「この地下室で互いに『頑張っていこう』と誓ったんですわ」

 広島大の調査で近距離被爆の生存者数が確認されだした70年、元児童が再会した。被爆校舎の一部を保存して2002年開館の資料館が「地下室の奇跡」とイニシャルで紹介している3人。すし店を営んだ級友は93年、元広島市職員の2級後輩は02年に亡くなった。

 「お母さんや級友、原爆で死んだ人が見守ってくれているから長生きしている」。そうとしか思えないという。4男1女は独立して妻と2人暮らし。夏は白血球が減るが今も工場で週3日は働く。

 袋町小平和集会から下校する児童らに声を掛けた。「平和な世の中をつくってや」「はーい」。純粋な答えに笑みが広がった。(編集委員・西本雅実)

【写真説明】被爆した袋町小平和資料館地下室で語る友田さん。「腰を壁に打ちつけられ、気がついたら級友が手を握っていました」(撮影・浜岡学)



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