太平洋戦争末期の1944年 効力試す
太平洋戦争中の一九四四年十一月、旧日本軍が捕虜のオーストラリア軍兵士らに対し、南太平洋のカイ諸島で猛毒の青酸を使った毒ガス兵器の人体実験を行っていたことが二十六日、オーストラリア国立公文書館(キャンベラ)で見つかった戦後のBC級裁判の記録文書から明らかになった。
中央大の吉見義明教授(日本近現代史)が発見し、田中利幸・広島市立大教授の協力を得て入手した。
関東軍防疫給水部(七三一部隊)が中国東北部で中国人らに生物・化学兵器の人体実験をしていたことは広く知られるが、吉見教授によると、オーストラリア軍兵士に対する人体実験の詳細が判明したのは初めて。旧日本軍が最終兵器と位置付けていた青酸ガスの効力検査が目的で、連合国軍の攻勢に対抗するため毒ガス兵器を重視していた実態が明らかになった。
文書は、終戦から約三年後の四八年七月十五日に香港で行われたオーストラリア軍による戦犯裁判の記録で、英文の判決文や日本語の供述書など計約四百ページ。
それによると、第五師団(広島)の毒ガス兵器担当の中尉は四四年十一月、上官の中佐の命令で、師団が保有していた青酸ガス兵器の効力が保たれているかを調べるため、オーストラリア軍兵士の捕虜ら二人に対戦車用の青酸入り手投げ瓶を投げ付けた。二人はその場で倒れ、憲兵が銃剣で刺殺した。
実験目的について中尉は四七年四月十七日付の供述書で、青酸ガス兵器が製造から約四年を経過し変質が見られたためとし、実験後「効果はあります」と報告したと述べた。中尉と中佐は裁判で絞首刑の判決を受けた。今回の新事実が盛り込まれた著書「毒ガス戦と日本軍」(岩波書店)は二十八日刊行される。
兵器使用の意思明確
粟屋憲太郎・立教大教授(日本近現代史)の話 旧日本軍がオーストラリア軍兵士に青酸ガスの人体実験をしていた事実を聞いたのは初めてで驚いた。日本の中国での毒ガス使用に対し、報復も辞さぬと警告を発したルーズベルト米大統領(当時)の声明発表後であり、連合国軍兵士に対し実験を行ったリスクは高かったはずだ。当時、青酸入り手投げ瓶は敵の戦車正面の小窓を目指して至近距離から投げる自爆攻撃を想定していた。人体実験は、敗勢が高まる中、実際に青酸ガス兵器を使用する意思を担当将校が明確に持っていたことを示しており、最後の戦いで使うつもりだったのではないか。(共同)
●クリック 旧日本軍の毒ガス兵器
1929年、陸軍が竹原市の大久野島で製造を始め、後に海軍も神奈川県寒川町に工場を建設した。旧軍は毒ガスの種類を色で識別。猛毒の青酸ガスを「ちゃ」、致死性のイペリットとルイサイトを「きい」、嘔吐(おうと)性ガスのジフェニールシアンアルシンを「あか」、催涙ガスを「みどり」と呼んだ。米軍の調査報告書によると、旧日本軍は計約750万発の毒ガス兵器を製造。中国では大量の毒ガス兵器が遺棄されたままで、日中両政府が廃棄処分を目指し協議中。(共同)
    
|