1945年8月6日の広島市への原爆投下直後、市内の自宅近くに避難してきた若い兵隊を介護した女性が、被爆死した最期の様子を伝えたいと、遺族を捜している。
女性は、神奈川県座間市の主婦小宮武子さん(75)。当時、広島市の白島、牛田両地区を結ぶ工兵橋の北側(現東区牛田新町)に住んでいた。
女学校生だった小宮さんは、勤労奉仕が休みで自宅にいて無事だった。原爆投下直後から全身にやけどをした多くの市民や兵隊が、自宅前を次々と通り過ぎていった。
二十歳前後の若い兵隊が現れたのは、午後二時ごろ。上半身にやけどを負い、衰弱して歩けなくなっていた。小宮さんは自宅の焼失こそ免れたが、窓枠が吹き飛ぶなど大きな被害を受けた。被爆した姉の世話もあり、兵隊を家の中で招き入れて世話をすることはできなかった。
「呉市の四田(しだ)栄です。両親は今、京都に疎開しています」と聞いた。「水を下さい」との求めに、翌朝まで何回もひしゃくで運んだ。だが、翌朝になって息を引き取り、遺体は近所の人が太田川の中州で、だびに付したという。
小宮さんは四七、四八年ごろ、呉市役所で遺族を捜したが見つからず、五七年には結婚で広島を離れた。あの日から五十八年たった昨年夏、原爆関連のテレビ番組を見て、「自分が元気なうちに、四田さんのことを伝えたい」と、再び遺族捜しを思い立った。
昨年秋に広島、呉両市役所や被爆者団体などにも問い合わせ、遺族が関西に転居した足取りまでは分かったが、住所や連絡先などはつかめていない。
小宮さんは「遺族や友人が見つかれば、両親を心配されていた四田さんの最期をお伝えしたい」と情報を求めている。中国新聞呉支社TEL0823(22)5525。
    
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