歳月は残酷でもある。米国の原爆投下で焼かれた広島の街は、見事なまでに復興を遂げた。しかし、被爆者に容赦なく老いはしのび寄り、あの日を忘れたかのように、核をめぐる世界情勢は深刻さを増す。忘却にあらがい体験の継承を急げと、私たちの背中は時間に押されるかのようだ。ヒロシマはあす被爆五十九年。「8・6」がまた、めぐりくる。
この夏、広島湾に浮かぶ似島(広島市南区)で、原爆死没者八十五人の遺骨が見つかった。半世紀以上たって眠りから覚めること自体が、犠牲者の正確な人数すら判明できていない原爆被害の甚大さを物語る。茶褐色に染まった遺骨は同時に、「忘れていたのか」と私たちを責める。
国内の被爆者は約二十七万四千人(三月末現在)。悲しいことに十年前より、約六万人少なくなった。つらいことに被爆地は、あの日の記憶を薄れさせていく。被爆者の平均年齢は七十二歳を超えた。
だが、病床にあっても体験を語り続ける被爆者がいる。親の代わりにきょうだい、子や孫の世代が、原爆に奪われた肉親を語り始めた。被爆資料をデジタル化するなどして後世に伝える試みもテンポを速めだした。
若い世代や二世たちも、あの日を心に刻もうと動く。被爆手記の朗読会で声を張り上げ、老いた被爆者の口元で体験を聞き取る。その話を絵にしたり、代弁したり。似島でも遺骨の発掘現場を見守る姿があった。
秋葉忠利市長は六日読み上げる平和宣言で、向こう一年を「記憶と行動の年」と位置付ける。被爆六十周年の来年に、核兵器廃絶への道筋を確かなものにしようと呼びかける。
平和記念公園(中区)にある原爆慰霊碑は「過ちは繰(くり)返しませぬから」と誓う。戦争も核兵器もない世を築く一歩は、歳月を超え、国境や世代も超えて、あの日を共有する営みから始まる。(江種則貴)
    
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