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遺骨、やっとこの手に 北海道遺族代表の新保さん '04/8/6

 夫の遺志で義弟捜す 「義母も必ず」心に誓う

 六日午前八時十五分。広島市中区の平和記念公園であった平和記念式典で、「ゴーン」と響く鐘の音を耳にしながら、北海道遺族代表の新保(しんぼう)邦子さん(69)=札幌市中央区=は、七月二十日に遺骨を引き取った義弟を思った。「やっと見つけてあげられた。亡くなった夫も喜んでくれているはず」。あの日を思わせる暑さの中で黙とうを終えると、原爆慰霊碑をじっと見つめ、静かに席に着いた。

 五十九年前。夫照(あきら)さんは広島県吉田町(現安芸高田市)に疎開していた。旧制修道中二年の弟直(ただし)さんは、三篠本町(西区)に住んでいた。当時十四歳。学徒動員先の雑魚場町(現中区国泰寺町)で閃光(せんこう)を浴びた。照さんの母、靖(やす)さんも土橋町(中区)で建物疎開作業中だったという。家族を捜しに被爆地に入った照さんは、二人を見つけられなかった。

 二十四年後。一九六九年七月、海田署の資料倉庫で見つかった戦災死検調書に、直さんの被爆後の足取りが分かった。「救護所の船越国民学校(現安芸区の船越小)で翌日午前二時半死亡。八日に火葬して、遺骨は船越町長へ」。しかし、その後が分からなかった。

 夫の死が、次の手掛かりを呼び込んだ。

 昨年五月に七十三歳で生涯を閉じた夫の遺族として今年、式典への参列を決めた。七月中旬、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(中区)に三人の遺影を郵送。直さんの遺影には、遺骨の行方を尋ねる文を添えた。供養塔に安置され、身内が分からない遺骨の名前を紹介する名簿が北海道庁にあると知らされた。道庁に確認すると、「神保正という名前がある」との回答だった。

 漢字が違うものの、広島市に「義弟かもしれない」と問い合わせた。住所、在籍していた学校と学年が一致した。骨を受け取り、照さんや父が眠る中区寺町の墓に納めた。「兄弟水入らず。やっと一緒になれますよ」。墓前に報告した。

 「長年捜した遺骨との出会いがあったばかり。式典は感無量でした」。すぐに原爆資料館に足を運んだ。展示中の似島の遺品に、義母の靖さんの遺骨の手掛かりを求めた。入れ歯やくしなど六十四点すべてに目を通す。「五十九年たった今も遺品がこんなに出るなんて。義母をあきらめるのはまだ早いですね」

【写真説明】義弟に続き、義母の手掛かりを捜して似島で出た遺品に見入る新保さん(原爆資料館東館)


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