関連ニュース
8・6の昼、零戦で上空飛行 福山の中林さん '04/8/6

 「至るところに煙 人の姿なく」 記憶後世へ今語る決意

 広島に原爆が投下された一九四五年八月六日午後、上空を零戦で飛行した男性が福山市にいることが五日、分かった。数日後に入市被爆し、八日に福山空襲にも遭っている。「あまりの惨状でこれまで黙っていた。年を重ね、後世に残すためにも語ろうと思った」と、家族以外に初めて体験を明かした。

 中林正春さん(78)=福山市多治米町。当時、茨城県の第一〇八一海軍航空隊霞ケ浦派遣隊の一等飛行兵曹だった。零戦の輸送のため六機編隊で霞ケ浦から朝鮮半島の元山に向かう途中の五日、エンジン不調で兵庫県の伊丹に着陸。六日午前に一人で伊丹をたち、「古里に最後の別れをしよう」と福山市上空を回り、昼すぎに広島上空に差し掛かった。

 高度は三百―五百メートル。はるか上空にはきのこ雲が残り、市中心部は火災で至るところから煙が出ていた。「橋の上で馬車を引く人以外、人の姿は見えなかった」

 同日、元山に到着した直後、本土決戦のため霞ケ浦に戻るよう命令を受け、数十人が輸送機に乗り九州まで帰った。「長崎県の大村飛行場だった」と記憶する。列車で霞ケ浦に戻る途中、広島県大野町の宮島口駅で止まったため海田町の海田市駅まで歩いた際、広島中心部も通った。

 死臭が漂い、道路脇に死体が山のように積まれる。黒焦げの路面電車では、乗客がつり革を持ったまま死んでいた。「上空から見えなかったが、実際の被害はむごいの一言。原爆を投下した米兵には分からんじゃろう」と振り返る。

 中林さんは八日夜に福山市多治米町の自宅に立ち寄り、家族とともに福山空襲にも遭った。自宅は全焼した。

 被爆当日に広島上空を旧軍機で飛んだ例としては、下関市小月の旧陸軍一二飛行師団の元少尉も証言している。原爆被害に詳しい広島女学院大の宇吹暁教授は「六日に飛んだという証言は中林さんが二人目ではないか」という。

 中林さんは健康だったので被爆者健康手帳は取得しなかったといい、「原爆の破壊力は想像を絶する。同じ過ちを繰り返してはならない」と訴えている。

 ●当時戦闘機行き交う

 防衛庁防衛研究所図書館史料室(東京都目黒区)の落合厚志史料専門官の話 当時は本土決戦に備え、国内を戦闘機などが行き交っていた。記録はないが、ありえないことではない。

【写真説明】平和を祈って作った零戦模型を前に、広島上空を飛んだ体験を語る中林さん


MenuTopBackNextLast

ホーム