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「一番電車」運転士は私 沿線の惨状 息のむ '04/8/7

 ■封じた記憶 伝えたい 廿日市の山崎さん

 被爆のわずか三日後、焼け跡の広がる広島市内を電車が走った。市民の希望の象徴「一番電車」。元広島電鉄社員の山崎政雄さん(75)=廿日市市四季が丘=はこの夏、その運転士は自分だったと、五十九年間封じてきた記憶を明かした。「美談になっとるんは誇りに思うよ。じゃけど、がれきに埋もれた人らを横目に運転したことが忘れられんのよ…」。六日の平和記念式典後、当時の道をたどった。

 十六歳だった山崎さんは、爆心地から約二・五キロ西の己斐駅(現西区の西広島駅)で被爆した。当直明けの点呼を済ませ、帰り支度のため駅舎二階に上がった直後だった。揺れが鎮まると街は廃虚と化し、やがてホームに横たわるおびただしい死傷者。足が震えた。

 市内電車は、被爆を免れた廿日市変電所を電力源に九日、己斐駅―天満町電停間(約一・四キロ)で部分開通した。山崎さんは上司から、試運転の運転士に指名された。陸軍の兵士たちも含め七、八人と、一両編成の車両に乗り込んだ。

 がれきのすき間に見える手足、すすまみれで大八車を引く人々…。見渡す限りの焼け野原に息をのんだ。家族は皆、河内村(現佐伯区)にいて無事だったものの、同僚や友人を失った。片道十五分の距離。「とてつもなく長く感じた」と覚えている。

 試運転が終わると間もなく、広電家政女学校の生徒を車掌に本格運行を始めた。金を持たない乗客からは運賃を取らない。被爆から一週間たつと下痢や脱毛の症状が出た。それでも運転はやめなかった。一番電車が「希望の光だった」と聞いたのは、数年後だった。

 今年七月、地元の四季が丘小の児童に、家族にも話さなかった辛い記憶を明かした。「被爆者はじきにおらんようになる。若い人らに伝えとかにゃいけんと思うようになった」。五年前に大腸がんを患ったのが背中を押した。

 西広島駅を訪ねると、後輩の駅員が停止中の車両に案内してくれた。十九年ぶりに握るハンドル。がれきから息を吹き返した街並みに、「生ある限り語り伝えよう」と誓った。

【写真説明】59年前に一番電車の運転席から見た光景を語る山崎さん=西広島駅(撮影・山本誉)


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