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似島で友や兄の面影捜す 苦い体験 聞き入る後輩 '04/8/7

 この夏、原爆死没者八十五人の遺骨が見つかった広島市南区の似島。じりじり日差しが照りつける島の発掘現場に六日、原爆で奪われた旧制山陽中・工業学校の親友たちや兄の面影を捜す三人がいた。同行した現・山陽高(西区)の生徒三人が傍らで、先輩の苦い体験を黙って聞く。

 「ここは陸軍の馬の検疫所だったんですよ」。現場近くの慰霊碑前。それまで沈黙を通した石田英雄さん(73)=中区=がおもむろに語り始めた。「先生がね、全身やけどの生徒を船に乗せ、似島まで何往復もしたんです」

 旧制山陽中・工業学校の一年生約四百十人は、雑魚場町(現中区国泰寺町)付近での建物疎開作業中、原爆に焼かれた。とれかけたボタンを付け直すため防空壕(ごう)に入って生き延びた三浦幹雄さん(72)=佐伯区。石田さんの話に何度もうなずく。

 発掘に携わった島民の住田健治さん(45)が、写真を見せた。「こういう葬り方しかできなくさせたのが戦争よ」。六十センチ四方に押し込められた五体分の頭骨。あばら骨の位置もはっきり写る。

 「遺品が出たのはテレビで見たけど、骨もこんなにあったんじゃ」。山陽高三年、角野剛広君(17)=西区=が口を開いた。

 原爆投下直後、島には約一万人の負傷者が運ばれた。救護を手伝った島民の堀口幸枝さん(82)は「薬がないけえ、みそや灰を塗ったんです」。全身やけどの子どもの話に差し掛かると、涙が証言をかき消した。

 「ちゃんと埋めてもらったのだから、幸せだったのかも」。谷川幸子さん(69)=東区=がつぶやいた。兄の岡野博夫さんも山陽中一年生。以前ここで遺品が見つかり、兄の最期の地は分かった。だが、遺骨は今もない。

 島から帰るフェリー。「いつかはここに来なくてはと思っていた」と石田さんがぽつり。爆心地から遠くの工場に動員され、助かった後ろめたさ。五十九年間、原爆のことは身内以外に打ち明けなかった。でも幼なじみの被爆状況は調べていた。島に運ばれたことも、とうに知っていた。

 「私らが話していかんといけん時代になったんですよ」。石田さんに三浦さんが声をかける。その二人を、生徒たちが見守っていた。

【写真説明】石田さん(右端)の話に聞き入る角野君(左端)、三浦さん(左から2人目)、谷川さん(左から4人目)たち


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