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引き揚げ孤児の遺骨守り60年 '05/7/30

 東広島市西条町田口の児童養護施設「広島新生学園」に10体の遺骨が眠る。終戦で生還しながらまもなく命を落とした引き揚げ孤児の骨である。納骨堂の上に原爆慰霊碑。親子二代で子どもたちを支えてきた上栗哲男園長(56)は毎年8月6日、碑の前で戦争の悲惨さと平和の尊さを園児らに語り続けている。

 慰霊の石碑は、デルタを表現した三角石の両脇に平和の象徴のハトの翼をあしらったデザイン。土盛りを背に、グラウンドの横に立っている。

 納骨堂は広さ五平方メートル。棚に白い布に包まれた箱やつぼが整然と並ぶ。「南花子」「奥田千秋」「南日出夫」…。布に記した名前の姓は五人までが「南」である。「名を知る手掛かりがなかった子どもたち。南方から引き揚げてきたので父が付けたんです」と上栗園長は説明する。

 園は一九四五年十月、父頼登さん(九五年、七十六歳で死去)が広島市宇品の旧陸軍暁部隊の兵舎を借りて開いた。フィリピンや台湾などからの孤児を受け入れた。

 被爆体験が原点だった。

 当時、頼登さんは広島市中区にあった陸軍通信隊の見習士官だった。その日は休暇で郊外にいた。救援で入市。全市で赤ん坊が泣いていた。

 「この光景が孤児の施設をつくるきっかけだったそうです」と上栗さん。記録では、入園した引き揚げ孤児は約二百人。約四十人が栄養失調などで死亡したとある。

 園は七一年に広島市から現在地に移転。同年、慰霊碑と納骨堂を造った。以来、頼登さんや上栗園長が原爆忌には園児を連れて訪れ、遺骨の由来を伝えてきた。「子どもの心に平和の種をまき、温かい家庭を築く礎にしてほしいんです」。その日が近い。

【写真説明】納骨堂で遺骨を見つめる上栗園長


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