広島に原爆が投下された一九四五年八月六日から九月にかけて一人の医師がみとった被爆者五十二人分の死亡診断書が、広島市安佐南区の元診療所から見つかった。被爆直後の死亡診断書が大量に見つかるのは珍しい。静かな農村の診療所に多くのけが人が押し寄せ、「新型爆弾」の正体も分からないまま死因の記入を迫られた医師の動揺を、黄ばんだ書類が伝えている。
医師は、爆心地から直線距離で約九キロの安佐郡伴村(今の沼田町伴)で開業していた伴(ばん)冬樹さん(一九六七年に七十二歳で死去)。長男で同じ医師でもある京都大名誉教授の敏彦さん(71)が、今は自宅の倉庫として使っている診療所の建物を片付けていて、机の引き出しから見つけた。専用のB5サイズに近い用紙に、名前や性別、生年月日、職業のほか、発病日、死因、死亡日時、死亡場所を記している。
発病日は全員が八月六日で原爆に遭ったと推定できる。しかし死因は「戦災死」「戦災瓦斯(がす)中毒死」などさまざま。専門家が広島入りして放射線による急性障害であると発表した九月上旬になって、ようやく「放射線傷害」が登場している。
原爆資料館の高野和彦副館長は「被爆から六十年たって、一度にこんなに死亡診断書が見つかるのは珍しい。未知の症状に驚き、治療のかいなく短期間に多くの患者が亡くなった一医師の活動を裏付ける記録として興味深い」と話している。
診断書は二十、二十一日に同市中区の広島国際会議場である核戦争防止国際医師会議(IPPNW)北アジア地域会議の会場で、英訳も添えて一般にも公開する。
【写真説明】広島市安佐南区の診療所跡から見つかった被爆者の死亡診断書。日にちの経過につれ、死因の記述が変化している
    
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