広島市西区草津浜町の被爆者、木村秀男さん(72)が被爆死した兄を絵に描き、中学生ら三人がナレーションを付けて三日、地元の公民館で披露した。自らは熱線に焼かれ、兄は両腕をもがれ、上半身だけの姿で見つかった。「もう後がない。今伝えとかんと悲劇が繰り返される」。そんな焦りが木村さんに兄の最期を絵に描かせ、若者たちがその思いに突き動かされた。
「豊」と彫り込まれた文字がかすかに見えるバックル、炭のように焼けた布製の財布。「兄の分身。つらさがしみ込んでいる」と木村さんは毎日、遺品を納めた仏壇に手を合わせ続けてきた。
兄の豊さんは当時十八歳。空襲警戒に駆り出され、広瀬国民学校(現・中区の広瀬小)で被爆したらしい。父と姉が連日、焼け跡を捜し回り、十日余り後に訪ねたのが同校。遺体を一体ずつ持ち上げると、皮がズルッとむける。頭部と胴体だけの遺体の下からバックルが出てきた。左胸の位置には、姉が贈った碁盤模様の財布があった。
「その場で火葬するとき、頭がもげ、無惨じゃったらしい」と木村さん。姉は今も「思い出しとうない」と口を閉ざしたままという。
木村さんは今春、バックルなど遺品四点を原爆資料館(中区)に寄贈し、つらくて避けてきた兄の最期の様子も絵にした。「命の大切さを訴えたいんじゃ。絵や遺品は言葉が分からんでも必ず伝わるはず」。念仏を唱えながら描いたという。
木村さんも爆心地から約一・五キロの西観音町(西区)付近で熱線を浴び、大やけどを負っている。その体験は以前、「原爆の絵」にしていた。
草津公民館での発表会。「被爆体験の継承役を」との公民館側の呼び掛けに志願した庚午中二年の藤田瑞樹さん(13)と門脇弘樹さん(13)、大学院生の福繁康広さん(27)=西区=の三人が、木村さんの九枚の絵をつなぎ、直接聞き取りした体験談をナレーションにして読み上げた。
「誰かが受け継いでくれるのを期待しとった。うれしい」と木村さん。七年前に急性すい炎を患い、白内障で視力も弱ってきたが、「生きとる限り描きたい」と誓う。
【写真説明】被爆で無惨な死を遂げた兄を描いた木村さん(右手前)。左から藤田さん、門脇さん、福繁さんが絵日記にして披露した
    
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