久間章生前防衛相の「原爆しょうがない」発言が尾を引いている。「投下是認ではない」と被爆者団体に回答したが反発され、九日の長崎市の平和祈念式典には欠席する。発言で浮き彫りになった「投下責任」「違法性」についてあらためて考えてみたい。
日本政府は、投下直後こそスイス政府を通じ米国に激しく抗議した。しかし講和条約で連合国への賠償請求権を放棄してからは沈黙する。「大戦後、米政府に直接抗議したことは確認されていない」(政府答弁書)し、違法性についても言及していない。
当初は敗戦ゆえの遠慮があったろう。一九五二年に独立を回復しても、冷戦下で米国側陣営に組み込まれ、政府はその後も安全保障を「日米同盟」に求めている。こうした事情から、さかのぼって投下責任を問えない雰囲気があり、久間発言もその歴史的な屈折を背景に生まれたと思われる。
しかし「しょうがない」という過去の追認は、ある種の思考停止につながらないだろうか。私たちは投下責任を問い続けることで、核なき未来を展望したい。
核兵器については国際司法裁判所が九六年に「使用や威嚇は一般的に国際法違反」との勧告的意見を出している。もうひとつ、市民レベルの「原爆投下を裁く国際民衆法廷・広島」が先月出した「判決」もよりどころになろう。
国内外の国際法専門家による二年がかりの審理で、米政府とトルーマン元大統領らを有罪とし、謝罪などを求めた。市民を無差別に虐殺し、生き残った人にも放射線後遺症や差別の苦痛を与えたことが「人道に対する罪」や「戦争犯罪」に当たるとしたのである。
米国で原爆というと「パールハーバー(真珠湾の奇襲)」と返す人がいる。米政府の公式見解は今も「原爆が戦争終結を早めた」である。しかし相手を降伏させるためなら何をしても免責される、というものではなかろう。
「道義」に敏感な米国の市民にこうした考え方を浸透させたい。無視できない世論にまで成長すれば、政府に「罪」を認めさせ、新たな核使用をためらわせる力になる可能性もあろう。
ただ米国に責任を一方的に問うだけでは説得力があるまい。日本にも「慰安婦」「南京虐殺」など避けて通れぬ問題がある。それを併せて問うてこそ、米市民の共感が得られるはずだ。私たちの足元も直視しなければならない。
    
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