老いた被爆者は言う。あの日のことを思い出すと体の震えが止まらなくなると。飛行機の音にビクッとして隠れたくなるとも。放射線を浴びた体への不安も消えない。
あれから65年。鎮魂の日がことしも巡り来た。
午前8時15分に米軍機が広島上空でさく裂させた1発の原子爆弾。市民への無差別攻撃の狙いは恐怖をあおることにある。「テロの語源は恐怖。原爆投下こそが最大のテロだ」。先月末、広島市での国際シンポジウムで講演した米国人政治学者ダグラス・ラミスさんはそう断じた。
あまたの命を奪った上、生き残った者の心身を今もさいなみ続けるような恐怖。核兵器の残虐さをあらためて思う。
爆発力でいえば、広島型原爆の30万倍以上に当たる核兵器が地球上にある。「核廃絶をこの目で」という被爆者たちの願いを共有しない限り、人類の将来は危うい。
国連の潘基文(バンキムン)事務総長は長崎で、核兵器のない世界を一緒に目指そうと訴えた。きょう平和記念式典で発するメッセージは、世界の人々に勇気を与えることだろう。
米国のルース駐日大使や英、仏の代表も初めて式典に参列する。核保有国の代表が原爆犠牲者を悼むことは、核兵器の削減に努めるという意思表示とみて間違いあるまい。潮目の変化を実感する。
被爆地の役割
核爆発の下で起きた人間的悲惨の極み。それを正確に伝えるという被爆地の役割は重みを増している。今こそ世界へ、核廃絶の大きなうねりをつくり出したい。
オバマ米大統領が「核兵器なき世界」を唱えた昨春を境に、核軍縮の機運は盛り上がりを見せている。
だが、実際に歩を進めようとすると、米国をはじめ核保有国が立ちはだかる。期待と落胆が交錯するさまは、あざなえる縄のようだ。
今年5月、核拡散防止条約(NPT)再検討会議が5年ぶりに国連で開かれた。何ら成果がなかった前回と違い、全会一致で最終文書を採択できた。核兵器を非合法化する核兵器禁止条約の交渉の検討が明記されたことは「希望の種」である。
一方で、核廃絶へ期限を設けた行程表をつくろうという非同盟諸国などの提案は、削除された。核保有国がそろって強く反発したためだ。
オバマ政権の核政策にも二面性が見て取れる。4月に打ちだした米国の新核戦略指針に、NPTを順守する非核国に核攻撃をしないことや、ロシアとの交渉合意を受け核弾頭の削減を盛り込んだことは前進だろう。昨年1月の就任以来、臨界前核実験も行っていない。
禁止条約急げ
しかし、自国や同盟国を守るために核抑止力を堅持する方針は不変である。核軍縮を進めながら、保有国以外への核拡散やテロ組織に核爆弾が渡るのを阻止することに主眼を置いているようだ。
そうした核の不拡散政策にとどまっていては、廃絶への展望は描きにくい。そこで注目を集めるのが核兵器禁止条約である。国連総会では1997年から毎年、条約締結に向け交渉開始を求める決議案が賛成多数で採択されてきた。
潘事務総長は、この動きを支持している。2020年の核廃絶を目指す平和市長会議も、禁止条約交渉の即時開始を求める。それを促す第一歩として、まずは来年中に国際会議の開催を実現させる必要がある。
禁止条約の決議案に「時期尚早」との理由で棄権を続けているのが、ほかならぬ日本政府である。
「核兵器廃絶の先頭に立つ」と国民に約束した民主党が政権交代を果たしてほぼ1年。公約は置き去りにされているように見える。
数少ない成果が、核をめぐる密約の解明である。核兵器廃絶を唱えながら米国の「核の傘」に頼ってきた矛盾を、あらためて国民に突き付けたことは評価できよう。
残念ながら、それに続く政策の見直しが進まない。岡田克也外相が有識者懇談会を設けるなど核軍縮政策を再検討する動きもある。だが、内閣に司令塔が不在で、政治主導が見えない。民主党政権への失望も広がっている。
約束に背を向ける動きも目に付く。インドへ原発関連機器を輸出できるようにするため、政府は原子力協定の交渉に入った。相手はNPTに加盟せずに核武装する国。例外扱いは、核拡散の連鎖を引き起こしかねない。
菅直人首相の私的諮問機関が非核三原則の「持ち込ませず」の見直しを検討中という。相も変わらず核の傘にしがみつく発想だ。被爆国が核軍縮の機運に水を差すようでは、世界から相手にされなくなるだろう。
日本政府がなすべきことは多々ある。まず、核兵器禁止条約の交渉開始に向けてイニシアチブを取るよう方針を転換すべきである。
足元では、核の傘から抜け出す手だてを真剣に探る必要がある。北朝鮮や中国の脅威を叫ぶだけでなく、北東アジアの非核化を長期目標に据えて外交努力で道を開く。非核三原則の法制化に踏み切り、「非核の覚悟」を内外に示すことも不可欠だ。
米国は謝罪を
米国大使の式典参列で、原爆投下責任の問題が再燃しそうだ。正当化する意見が根強く残ることは承知の上で、米国に求める。被爆者たちが命あるうちに、許されない行為だったと認め、謝ってもらいたい。戦後、一度も抗議していない日本政府も米国に働きかけていくべきだ。
核兵器をなくす決意は、原爆投下の非人道性に向き合うことで確かなものになる。その上にこそ「核なき世界」の未来が築かれるはずだ。
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