中国新聞社
'13/8/7
自分のように苦しむ人が現れませんように 生後8カ月で被爆、ピースボランティアの川島さん

 ▽偏見で離婚 平和宣言に体験談

 「あの日」がもたらした苦難を知るからこそ、次代に語りたい思いがある。原爆の日の6日、広島市中区の平和記念公園一帯では、核兵器のない世界への願いを込めたバトンが、被爆者や遺族から若い世代に託された。

 平和記念式典から流れる人々で混雑する原爆資料館(広島市中区)。その中に、参列から駆け付けたピースボランティアの川島智恵子さん(68)=西区=の姿があった。原爆に健康な生活を奪われ、偏見から離婚を余儀なくされ…。心身ともに傷ついた半生の苦しみは、この日の平和宣言に引用された。川島さんは言う。「核の被害に、終わりはないんです」

 生後8カ月、爆心地から1・1キロの上天満町(現西区)の自宅で被爆した。学徒動員に出ていた中学生の兄と再会するまで、母の胸で何時間も放射線にさらされた。そのため体は弱く、学生時代はひどい貧血に悩んだ。登校前の栄養剤の注射は欠かせず、授業もよく休んだ。

 23歳、新婚1カ月のとき。熱を出し、義母の付き添いで医者にかかった。受付に出した健康保険証と被爆者健康手帳を見て、優しかった義母が一変した。

 「あんたー、被爆しとるんね。被爆した嫁はいらん。すぐ、出て行けー」

 嫌がらせが続き、家も追われた。原爆投下から20年余りが過ぎても、偏見は人々の心から消えなかった。「私のせい?」と悩んだ。新しい家庭を築けたが、心ない言葉は耳から離れなかった。

 4年前、資料館の案内ボランティアに就いた。兄が目にしたはずの光景を語らないまま、亡くなったのがきっかけだ。福島第1原発事故で、自分と同じように放射線の被害に苦しむ人が現れませんように―。そう強く願いながら、平和宣言への体験談をつづった。

 6日はいつも通り、月3回ほどのボランティアに立った。川島さんの体験を聴いた小学5年沖本知花さん(11)=呉市=は「お母さんが同じ目に遭ったらいやだ」とつぶやいた。川島さんはうなずいた。「そうね。だから大人になったら世界中に友達をつくって、核をなくしていってね」(加納亜弥)

【写真説明】「世界ではまだこれだけの核実験を続けているんです」。親子連れに向け、丁寧に説明する川島さん=手前右(撮影・室井靖司)



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