関連ニュース
被爆直後の救護所、生々しく 陸軍撮影52枚現存 '05/8/5

 ■広島入りの軍医残す

 一九四五年八月六日に被爆した広島市民らが収容された臨時救護所の生々しい状況を記録した写真があった。放射線調査のため十四日に広島入りした陸軍軍医学校教官だった御園生圭輔さんが残し、市へ戦後寄贈していた。五十二枚(うち二枚は同一カット)が現存。原爆のすさまじさがひしひしと伝わってくる。

 写真は名刺サイズの大きさ。南区にあった「陸軍運輸部」の使用済みザラ紙一枚ごとにオリジナルプリントが一枚から二枚張られ、収容者の症状や救護所となった国民学校などの名称が記されている。それらをまとめて表紙に「昭和二十年八月六日 広島市戦災記録写真集」と旧漢字で書き、「極秘」「船舶軍医部」の印が押してある。

 爆心地から南四・六キロの南区宇品海岸にあった陸軍船舶司令部の写真班が撮影し、被爆直後から救援・治療活動に当たった同軍医部が取りまとめたとみられる。

 御園生さんは戦後、国の原爆被爆者医療審議会長や原子力安全委員長を務め、一九九五年に八十二歳で死去した。妻と写真を保管する財団法人広島原爆障害対策協議会の承諾を得て、一部を特集面(ヒロシマの記録・核時代を刻むへ)で紹介する。

【写真説明】第一国民学校(南区段原山崎町、現在の段原中)に収容された老若男女。左手前の女性は背中の火傷で横たわることもできないのか、半裸で座っている(白い部分は台紙に張った写真に付着した紙)


MenuTopBackNextLast

ホーム