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「友と眠って」63年目の申請 原爆死没者名簿に広島県女生・箕輪恵子さん '08/8/5

 ▽兄・久雄さん 「慰霊碑の言葉再考」

 学徒動員で建物疎開の作業中に被爆死した、広島県立広島第一高等女学校(県女=現皆実高)の生徒が、被爆から六十三年目の今年七月、兄の手によって広島市原爆死没者名簿に登載され、六日の平和記念式典で原爆慰霊碑に納められる。

 一年生だった箕輪(みのわ)恵子さん=当時(13)=は同級生とともに中区小網町周辺で被爆。亡くなった県女の一年生二百二十三人の一人だった。

 当時、旧制広島二中(現観音高)四年生だった兄の久雄さん(78)=神奈川県藤沢市=は、学徒動員で西区の三菱重工で作業中に被爆。両親と幼い二人の妹も被爆したが奇跡的に助かった。翌日から二日間、久雄さんは母と小網町周辺を捜した。無数の死体が道路上に並べられたり小学校に収容されたりしていたが、恵子さんは見つからなかった。

 母はその後も連日周辺を捜し、恵子さんの物など県女生のリュックを掘り出したが、遺体は確認できなかった。翌年、一家は父の転勤で横浜市内に転居。藤沢市の墓にリュックを葬った。

 戦後、両親は広島を一度も訪れず、恵子さんの死や原爆を語ることはほとんどなかった。母は原爆慰霊碑の「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」の碑文に「幼い娘が何の過ちをしたのか」と怒りの言葉を漏らしたこともあり、名簿への登載申請はしないままだった。「家族で一人だけ死んだ娘が、ふびんでならなかったのだろう」

 二十年ほど前、久雄さんは広島を訪ねて県女の慰霊碑や原爆慰霊碑を回ったが、両親には話さないままだった。父は一九九六年、母は九八年に相次いで亡くなった。

 久雄さんは、全人類の誓いを表現しているという碑文の意味などを、自分なりに調べ始めた。「被爆者である両親も慰霊碑に眠っている。私も高齢になった。今のうちに妹も一緒にしておいてやりたい。若くして死んでいった人たちのことを後世に伝える義務もある」。六日にはかなわないが、久雄さんは近いうちに慰霊碑を訪ねるつもりだ。(北村浩司)

【写真説明】恵子さんの遺品を整理する兄の久雄さん


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