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「ここで熱線」追憶の涙 釜山の金さん、62年ぶりヒロシマ '07/7/8

 ▽後障害の苦労語る

 在韓被爆者の金文成(キムムンソン)さん(69)=釜山市=が七日、六十二年ぶりに広島市を訪れ、原爆で左半身を焼かれた山手町(現西区)に立った。やけどした左頭部の写真を示し「あの日」を振り返り、核兵器のない世界を願った。

 金さんは、韓国原爆被害者協会釜山支部の車貞(チャジョン)述(スル)前支部長や支援者ら約十人に付き添われ、被爆した場所を捜した。目印の一つの旧山手川は戦後太田川放水路になるなど風景は変わった。

 山の形やJR山陽線の線路…。記憶をつなぎ合わせつつ歩いた。「ここで間違いない」と、ふと立ち止まった金さんの目がみるみる潤んだ。被爆翌月に韓国に渡って以来忘れ、渡日治療のために学び直した日本語で「何と話していいか分からない」とうつむいた。

 舟入川口町(現中区)に生まれ、当時は国民学校一年生。引っ越しに伴う転校手続きのため兄(89)の自転車の荷台に乗り、山手町の自宅から己斐に向かっていた。爆心地から約二・一キロ。爆風で川土手沿いの線路に投げ出された。熱線を浴びた左半身は頭から足まで大やけど。ケロイドが残り、成長とともに変形した足は今もうむ。扁平(へんぺい)上皮がんにもなり、転移もした。

 協会と支援団体のつながりで一九九四年以降、病状確認を兼ね毎年長崎市で治療を受ける。経済的な理由もあり広島まで来る機会がなかった。広島と長崎の被爆二世でつくる世話人会が被爆体験を語り継ごうと招いた。

 世話人の中谷悦子さん(57)=廿日市市=は「私たち被爆二世が事実を継承し、多くの人に伝えたい」。金さんは「世界中が核兵器をつくらないように若い世代に頑張ってほしい」と訴えていた。

 金さんは世話人たちが開いた集会にも参加。三回の原爆症認定申請で二〇〇五年に認められた経緯と後障害に苦しみ続けた六十二年を、市民らに語った。(森田裕美)

【写真説明】被爆した場所に立つ金さん。やけどで髪のない写真を示して当時の記憶を語った(撮影・山崎亮)


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