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ヒロシマの空白再生 被爆1ヵ月の映像現存 「ニュース」未収録分 '07/8/2

 原爆で壊滅した広島市の実態を直後に収めた映像が、62年ぶりによみがえる。中国放送(RCC)で見つかった16ミリフィルムについて、同社の協力で貴重なカットを紹介し、埋もれていた原爆記録映像の「謎」に迫る。

 広島の惨状を地上から記録した現存する最も早い映像には、国策の社団法人「日本映画社」による「日本ニュース第二五七号」がある。昭和天皇が派遣した永積寅彦侍従が一九四五年九月三日に雨の被爆地を視察する光景などが同月二十二日、「原子爆弾 広島市の惨害」のタイトルで公開された(現在はNHKが所蔵)。

 今回の映像は「撮影九月五日」とあり、当時の新聞記事にも残っていた侍従視察先の本川国民学校での遺体焼却など生々しい光景を収める。だが、その場面は「第二五七号」で扱われていない。占領統治を始めた連合国軍総司令部(GHQ)が九月十九日に発したプレスコード(報道検閲)が影響したとみられる。

 原爆被害の報道が禁じられた例に、やはり日映が製作した「広島・長崎における原爆の影響」がある。旧文部省の原爆災害調査団に同行して十月に本格的な撮影に入った記録映画は、米軍の指揮下に置かれ、完成した翌年五月に接収された。

 その映画を製作した加納竜一さん(八八年死去)らが著した「ヒロシマ二十年」は、「第二五七号」について「侍従に、東京本社のカメラマンが同行した」と言及する一方、詳細は撮影当時から不明としている。

 また、比治山小が保存している四五年当時の日誌には「侍従 迷子収容所ニ御来校」との記述が残る。子どもらを世話した元同校教諭の谷村保子さん(81)は「こんな映像があったなんて」と驚き、「写っている女性は市から来ていた保母さんではないか」とみる。

 侍従の視察先に沿った一連の撮影場所や、トラックを使っての移動撮影から、大戦中から唯一のニュース映画製作集団だった日映の関係者が、侍従が広島を去った後もとどまって撮ったとみて間違いないだろう。それが16ミリフィルムに複製され、RCCに持ち込まれたとみられる。

 広島市の「図説戦後広島市史」の編さん者で、映像を見た松林俊一さん(63)は「原爆のすさまじさが伝わってくる。『原爆投下はしょうがない』などと恐ろしいまでに風化が進む中で、この映像が現れた意味は大きい」と指摘している。(編集委員・西本雅実)

【写真説明】<上>原爆投下の目標となった相生橋から西方面の廃虚。欄干は爆風で本川に落ちた<中>爆心地近くの本川国民学校運動場では、むしろなどをかぶせて遺体を焼いた<下>爆心地から約2.8キロで焼失を免れた比治山国民学校に、市は家族が行方不明の子どもを収容した(いずれもRCC所蔵の16ミリフィルムから)


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