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被爆前後の本通り映像48本 地元商店主8ミリ撮影 '08/7/24

 一九四五年八月六日、原爆で壊滅した広島市中区の本通り。在りし日の姿と焼け跡が8ミリフィルムに残っていたことが二十三日、分かった。被爆前後の爆心地付近を、定点的に記録した映像は極めてまれだ。市内最大の繁華街のにぎわいと静寂。その対照は原爆の悲劇性を映し出し、広島をたどる貴重な資料となりそうだ。(新田葉子、岩崎秀史)

 撮影者は、爆心地から約四百メートル東の革屋町(現中区本通)で服地店を営んでいた吉岡信一(のぶいち)さん(六六年、七十一歳で死去)。三七年ごろ撮り始め、その8ミリフィルムの一部、四十八本を長男の宏夫(ひろお)さん(82)=安佐北区=が保存していた。戦中の本通りを約十五分、焼け野原の市街地を約二分半、映す。

 日中戦争で首都南京を占領した三七年十二月に撮影したとみられる映像では、本通りのシンボルであるスズラン灯が、現在より幅の狭い通りの両側に架かる。日の丸が商店の軒先を飾り、戦時を伝える。

 吉岡さんは三井銀行広島支店(後の帝国銀行広島支店、現広島アンデルセン)の正面に店を構え、周辺を撮影。胡子大祭(えびす講)に合わせた売り出し「誓文払い」のにぎわい、防空訓練を活写する。のどかな雰囲気も残り、市公文書館は戦時色の薄い三七―四〇年ごろの映像とみる。

 被爆後の本通りは焼け野原にうってかわる。がれきが散らばり、かろうじて大林組広島支店(後の山口銀行本通支店、二〇〇二年解体)、下村時計店が外形をとどめる。中区上幟町付近から南側を見回し、福屋百貨店や旧中国新聞社が焦土に残るシーンもある。

 戦後林立したバラックはあまり姿を見せず、フィルムの箱に「正月広島」との筆跡があることから、四六年一月ごろの撮影とみられる。被爆後の市街地は日本映画社や米軍が撮影しているが、民間人による撮影は珍しい。

 ▽切ない日常の断絶

 広島市公文書館の高野和彦館長の話 昭和十年代の映像は珍しく、さらに広島では原爆で焼失した可能性が高いため、希少な資料だ。被爆前の商売や生活の様子が分かる。生活していた場所の被爆前と被爆後をとらえた映像は、見たことがない。地域の日常が断ち切られてしまった事実が伝わり、切ない思いがする

【写真説明】<上>【1937年12月ごろ】三井銀行広島支店(現広島アンデルセン)付近から東側を見た本通り。スズラン灯が通りを飾り、日の丸掲揚で南京陥落を祝う<中>【46年1月ごろ】焦土と化した本通り。東側を望むと、大林組広島支店(左)と安田銀行広島支店(右)、下村時計店(中央奥)がかろうじて姿を残す<下>現在の本通り


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