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被爆前の「古里」平和公園内 元住民が協力し説明板設置へ '08/8/3

 現在は広島市中区の平和記念公園となっている旧中島地区の四町の由来や戦前のにぎわいを伝える説明板が四日、公園内に設置される。原爆で壊滅した町の記憶が忘れ去られるのを懸念し、モニュメントなどの設置を長年願ってきた旧町民たちは二日、かつての「古里」に集い、喜び合った。(藤村潤平)

 説明板は中島本町、天神町、材木町、元柳町があった場所に設置。縦六十センチ、横九十センチのステンレス製で、地名の由来や被爆前の様子、死没者数の説明に加え、元住民が提供した写真や被爆直前の世帯地図を表示する。

 設置作業が始まるのを前に元住民四人が平和記念公園に集い、説明板と同じ内容を刷り出した原寸大の見本を手にした。「ここの小路は狭かったなあ」などと地下に眠る町の思い出を語り合った。

 繁華街としてにぎわった中島地区は原爆で廃虚となった。戦後は一九四九年の広島平和記念都市建設法公布で公園建設が進み、疎開などで生き残った住民の手による街の復興はならなかった。

 母と弟二人が被爆死した天神町の鉄村京子さん(78)=中区=は自宅跡を掘り返したが遺骨は見つからなかった。「戦前から公園だったと思う観光客や修学旅行生が多いと聞き、切なかった」

 説明板に自分の写真を提供した中島本町の石田和子さん(72)=西区=も父を、材木町の木曽真隆さん(74)=南区=も母と姉、弟を失った。多くの人が訪れる平和記念公園に複雑な思いも抱き、命あるうちに歴史をとどめたいと思ってきた。

 「ようやく消えた町のよりどころができる」。慰霊碑もなかった元柳町の森川耐子さん(82)=竹原市=もほっとした表情だった。

 説明板は国際ソロプチミスト平和広島が寄贈、市が設置する。世帯地図は、中国新聞社が住民や動員学徒の死没状況を追った連載「遺影は語る」で再現したものを提供する。

【写真説明】消えた町の跡に設置される説明板の見本を手に記憶を語り合う、左から石田さん、森川さん、木曽さん、鉄村さん=2日、平和記念公園(撮影・室井靖司)


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