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学徒の最期たどる記憶 広島の椿原さん、被爆の30人自宅で救護 '08/8/4

 ▽手記を執筆 供養続ける

 広島市中心部で建物疎開作業中に被爆した約三十人もの動員学徒たちを自宅を救護所として迎え入れ、最期をみとった被爆者がいる。広島市西区己斐上の椿原歓子さん(85)。被爆六十年を迎えてから記憶を思い返し、手記を書き、一人一人の名前をたどって慰霊を続けている。

 広島市立中(現基町高)の一、二年生で、三百人以上が小網町(中区)の建物疎開中に被爆し亡くなった。市街地の西の高台にある農家だった椿原さんの家には、顔がやけどで腫れた生徒が逃げてきた。義弟で教諭の木原早苗さんが指示したらしい。

 「とりあえず居間に頭を向かい合わせて二列に寝かせた」。あるだけの布団や毛布を敷き詰めたが、約二十人を収容して家がいっぱいになり、約十人は近くの集会所で介抱。兄嫁や近所の人と一緒に赤チンやキュウリを塗った。名前を尋ね、竹筒にそれを書いた紙を張って枕元に置いた。

 生徒たちは翌日から次々と逝き、全員助からなかった。遺族が引き取った以外は近くの学校で焼き、遺骨は竹筒に入れて渡した。「親がどれだけ心配しているかと思うとたまらなかった」。自身も妊娠四カ月だった。

 一年後に義弟は死亡。長い間、記憶は語らなかったが三年前、地元の公民館に求められて体験記を執筆。それを機に供養したいと思った。手掛かりを求めた原爆資料館(中区)で市立中の死没者名を記した資料があることが分かり、半紙に書き写した。「自分が世話したのがこの子だったのではと考えると…。今できる精いっぱいのこと」。四日には生徒たちを思い、引き取り手のない遺骨が眠る原爆供養塔を訪れる。(新宅愛)

【写真説明】学徒動員の中学生たちを救護したかつての家の跡に立ち、63年前の光景を思い返す椿原さん=広島市西区(撮影・今田豊)


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