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被爆刻んだ亡母の手紙 広島の大場さん、資料館寄贈へ '08/8/6

 被爆直後に市民が何を感じていたかを伝える手紙を、広島市安佐北区三入東の大場孝子さん(78)が保存していることが分かった。「デンパコウセンとやらでみるかげもなくやられ…」。亡き母が原爆投下四日後の八月十日ごろ、自宅焼け跡で包装紙の切れ端に被害や家族の相次ぐ死を生々しくつづった。一家の運命を変えたあの日から、六日で六十三年。原爆資料館に寄贈する決意をした。(藤村潤平)

 手紙は長さ七十センチほどの一枚の紙に、一九九三年に八十五歳で死去した母のツヤコさんが鉛筆で書いた。

 孝子さんの一家は爆心地から約一・三キロの楠木町(西区)で暮らしていた。材木商の父亀蔵さん=当時(51)=は自宅前で被爆し二日後に死亡。隣町に住む祖父母も相次いで亡くなった。ツヤコさんは空襲に備え、地中に埋めた荷物を包んでいた紙片を使い、和歌山県の親類に広島の状況や肉親の死を報告した。

 「廣島(ひろしま)を八月六日朝八時頃(ごろ)デンパコウセンとやらでみるかげもなくやられ 主人わひどいやけどで八日朝二時死に あくる日の九日午後四時頃母も死に 私(わた)しと孝子と二人で 二人の死がいをかたづけました」

 動員先の工場にいた孝子さんと、自宅で被爆した母は被爆翌日、焼失した自宅跡で再会した。祖父母の家も全焼し、行くあてはなかったが、手紙では親類を心配させまいと「私しの家わまるやけ 親の所(とこ)ろがくづれはしましたが やけておりません…」と書いている。

 どうして街が壊滅したのか知らされない市民が惨状をどう受け止め、生きようとしたのか。その一端が伝わってくる手紙は十七年前、あて先の親類宅で見つかり、ツヤコさんの手元に戻ってきた。

 二年後に他界した後は、孝子さんが保管してきた。読み返すたび、焦土で強く生き抜いた母の姿がよみがえる。「手紙が書かれた背景も含めて、人間のたくましさを感じてほしい」。より多くの人に見てもらおうと、原爆資料館への寄贈を考えるようになった。

 資料館によると、被爆直後に市民が原爆を「電波光線」などと呼んだ例は、確認されていないという。

【写真説明】<左>被爆直後に母が書いた手紙を広げ、当時を思い返す大場さん(撮影・今田豊)<右>包装紙の切れ端に、原爆による被害や家族の相次ぐ死をつづった手紙


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