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被爆直後に命懸けた医師がいた 亡き父に思いはせ '08/8/7

 手探りで被爆者治療に向き合った亡父を悼み、雑踏にたたずむ女性。自らの体験をたどろうと、離島から六十三年ぶりに被爆地を訪れた男性。学徒動員中に命を奪われた少年の集合写真を眺め、涙する遺族と不戦を誓う後輩たち。六十三年目の八月六日。人々は広島でさまざまな思いをかみしめた。

 原爆投下後に救護所となった福屋百貨店(広島市中区)で、被爆者治療に尽くした医師がいた。原爆症とみられる症状で被爆後一カ月たたない九月三日に亡くなった吉田寛一医師=当時(51)。未知の放射線被害に手探りで立ち向かい、力尽きた父の面影を求め、次女村上直子さん(81)=廿日市市=が六日、被爆建物として今も残る福屋を訪ねた。

 広島随一の繁華街にあるデパート。市医師会長だった父が院長を務めた「臨時伝染病院」は、終戦直後の八月十七日、市が設けた。「病院があったことを知っている人は、ここにはいないでしょう」。直子さんの横を買い物客が行き交う。

 被爆直後の広島では、吐血や下痢などの急性症状は赤痢とみられていた。八丁堀(中区)の自宅で妻ツマさん=当時(53)=と被爆しながら救護に追われていた父は、病院開設を市幹部に進言した。

 直子さんは「腕に茶褐色の斑点がありました」と当時の父の姿を記憶する。通勤中に広島駅付近で被爆した直子さんも、高熱と下痢に苦しんでいた。

 放射線の脅威は家族にも、自分にも迫る。「胸が苦しい。少し休もう」。父は八月末、福屋での治療を中断した。同じころ、病床のツマさんの容体が急変。「生きていたい」と言い残し、九月一日に亡くなった。父も後を追うように世を去った。

 一九四六年に結婚した直子さんは、夫の転勤で広島を離れた。夫の退職後の七九年に帰郷した直子さんは福屋を訪れ、変ぼうぶりに驚いた。歴史に埋もれる父の足跡を、手記にまとめる気持ちになったのは、七十歳を過ぎたころだった。

 臨時病院があった二、三階は婦人服売り場となった。「廃虚のビルで体の衰弱を自覚しながら、父は頑張った。父が呼び寄せているようで、ここは落ち着く場所なんです」。直子さんは数珠を手に合掌した。(石川昌義)

【写真説明】「ここで命を削って人に尽くしたんですね」。福屋の前で被爆者の治療にあたった父に思いをはせる村上さん(撮影・高橋洋史)


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