池田 康子(13)
広島市牛田町(東区)▼牛田小▼8月6日▼母良子が13回忌の追悼誌「流燈」に寄せた手記によると、麦ご飯を一ぜんで済ませ「今朝はほしくないの。10時には帰るから」と朝6時すぎ、防空ずきんとかばんを肩に掛け、地下足袋を履いて出る。91歳になる母に代わって、小学2年だった妹玲子は「母が8日、新橋の近くで友達2人と抱き合うようにして死んでいるのを見つけました。数日前に髪の毛を切った後ろ頭で確認したそうです。姉は生前、『死んだら学徒も靖国神社に祭っていただける。お国のため、天皇陛下のためだから泣かないでね』『学校で勉強がしたい。友達をたくさんつくりたい』と話していたそうです」。一緒にいた2人は同じ1組の瀬尾光世と末本繁子。
石田 富士子(12)
広島市立町(中区)。家族で疎開していた安芸郡中山村(東区)から通っていた▼袋町小▼8月6日▼荷物を取りに大八車で帰宅途中の父素四郎と母敏子が爆心1・8キロの猿猴橋で重傷を負い、動員されていた2・8キロの陸軍兵器補給廠(しょう)で被爆した修道中4年の兄達雄が捜す。「1カ月くらい歩き回りましたが一切不明です。作業現場跡は、裸や正視できないほどの遺体が転がっており、妹も即死したと思います。5人きょうだいの一番かわいい末っ子でした」
石田 玲子(12)
広島市段原新町(南区)。母たちと疎開していた安芸郡船越町
(安芸区)から通学していた▼広島師範付属小(現・広島大付属東雲小)▼8月8日▼船越町に住む父方の親族が大八車を引いて向かい、8日昼、作業現場跡で息を引き取る直前に見つける。広島二中(現・観音高)を卒業して小倉市(北九州市)にいた兄正彦は「伯母の息子の妻が妹に声を掛けると、『お母ちゃん』と安心したように、また助けを求めるように答えたのが最期だったそうです。自宅にとどまっていた父がその日朝に家族を迎えに来たそうです」▼広島工業勤務の父覚(50)は爆心720メートルの福屋旧館にあった事務所で爆死。母ミヨコ(39)は疎開先から帰宅した爆心1・8キロの段原新町の自宅でガラス片が突き刺さり、6日死去。
石本 陽子(13)
広島市段原大畑町(南区)▼段原小▼8月6日▼父勇と母静子らが被爆でけがをしたため捜せなかったという。遺骨は不明。
出雲 章代(13)
広島市比治山町(南区稲荷町)▼広島師範付属小▼8月6日▼母ユキコらが捜すが、遺骨は不明。爆心2キロの広島工専(現・広島大)で被爆した3年の兄祥二は「母がその年の10月に学校であった慰霊祭に参列し、同級生のお母さんから聞いた話では、材木町の防火水槽に女生徒4、5人が頭を突っ込んでおり、そのうちの一人の名札に『出雲章代』とあったそうです」▼中国新聞社広告部勤務の父初一(48)は爆心890メートルの本館で被爆し、翌46年2月8日死去。広島二中5年の兄照三(16)は動員されていた4・3キロの三菱重工業広島造船所から伝令に出て10日死去。
井上 明美(12)
安芸郡府中町▼荒神小▼8月6日▼爆心2・7キロの東蟹屋町にあった広島鉄道局(現・JR西日本)第二機関区に勤め、被爆した父幸造と自宅にいた母マサコが7日朝から麦飯弁当を携えて捜す。遺骨は不明。小学1年だった弟曄は「姉は『友達がたくさんできて学校は楽しいが、動員作業が続き、疲れる』とこぼしていたそうです」。91歳になる母は、二女の遺品として級長を命じられた証明書を亡き夫の遺影を入れた写真立ての中に保存する。
井上 陽子(13)
広島市東白島町(中区)▼陸軍偕行社付属済美小▼8月6日▼爆心1・7キロの自宅で下敷きとなった母節が7日から捜すが、遺骨は不明。結婚して佐伯郡平良村(廿日市市)にいた姉新藤順子は「市女の入学式を前に妹が泊りがけで訪ねてきて『お姉さんと同じ学校に行ける』とはしゃぎました。宮島線の電停まで見送った際、笑顔で手を振って乗り込んだのが姿を見た最後でした」▼日本通運広島支店勤務の父亮治(48)は、西蟹屋町にあった事務所へ向かう途中に被爆し、平良村の長女順子宅で21日死去。
大久保 正子(13)
高田郡三田村(安佐北区)▼徳島県立三好高女(現・辻高)から6月に転校▼8月8日▼救援に入った軍のトラックで佐伯郡大野村(大野町)の救護所に運ばれ、8日午前0時ごろ死去。爆心3・7キロの三菱重工業広島機械製作所で勤務中に被爆した父義春が9日、学校で死亡の知らせを聞いて向かい、遺骨を納める。市女4年だった姉弘子は「妹は大野小の救護所に運ばれてからも意識がしっかりしていたらしく、名前や年齢、両親の氏名などを答えた記録を父が見たそうです。三田村から家族を捜しに大野小へ行った男性から戦後、妹が『母ちゃん』と弱々しい声ながら呼び続けていたと聞きました。英語教師だった父は、本土決戦になれば米軍は四国沿岸部から上陸してくると判断し、家族6人で徳島から母方の親族がいた三田村に移ってきました」。
香川 清子(12)
広島市西白島町(中区)▼白島小▼8月6日▼遺骨は不明。戦後生まれのおい浩史は「昨年、95歳で他界した祖母喜美恵がつづっていた日記帳に、二女の清子さんを被爆後に見かけた人が新聞に投稿した記事が張ってあります。原爆の日が近づくと、祖母は遺骨すら見つからなかった娘を思い出しては泣いていました」。
柏 泰惠(13)
広島市白島中町(中区)▼白島小▼8月6日▼勤めていた日本製鋼所での宿直明けから帰る途中、爆心1・5キロの常葉橋(現・常磐橋)近くで被爆した父省三らが捜すが、遺骨は不明。自宅で被爆した小学3年の弟正則は「避難した安佐郡古市町(安佐南区)の祖母の疎開先に、両親は『もうあきらめるしかない』と肩を落として来ました。あの朝、『ハンカチを忘れた』と引き返した姉に、私が2階へ取りに行って渡しました」。
河村 和子(13)
広島市京橋町(南区)▼段原小▼8月6日▼爆心1・4キロの自宅で下敷きになった陶器商の父重一と母末子、兄憲二が8日から捜す。遺骨は不明。兄は「母は妹の市女合格を喜び、入学式を控えた日、家族の前で制服を着て見せるように言い、妹がはにかみながら立ったのは忘れられません」。3組の河村榮子はいとこ▼松本工業学校(現・瀬戸内高)2年の兄照三(15)は爆心900メートルの県庁一帯の建物疎開作業に動員され、遺骨は不明。
木下 美代子(13)
広島市段原山崎町(南区)▼広島師範付属小▼8月6日▼宮島方面へ出張していた県職員の父笹一らが捜すが、遺骨は不明。自宅で被爆した姉栄子は「本人は気分が優れず、母ミサヲが『たいぎかったら休んでいいよ』と言っていたところに、お友達が誘いに来て出掛けました。建物疎開に出て大やけどをして戻った母と、福木村(東区)にいた祖母がその夜、美代子の声が聞こえたと言います。その時に死んだのでしょう」▼爆心1・7キロの比治山橋一帯の建物疎開作業に動員された母に付いて行った弟の和守(5つ)は10日、やすのり(1つ)は6日死去。
国村 美佐子(12)
広島市土手町(南区松川町)▼竹屋小▼8月6日▼安佐郡亀山村(安佐北区)に疎開していた母クラ代と自宅で被爆した姉幸子が捜す。遺骨は不明。姉は「美佐子の下の妹2人もいた亀山村に疎開し、可部高女(現・可部高)に転校するよう勧めましたが、美佐子は『市女に入学したのだから戦争が激しくなっても広島に居たい』と言いました。同じ1年生の野崎和江(注・3組)を亡くした伯父が復員後、学校でちり紙に包んだほんの一握りの分骨を一緒に受け取りました」▼履物商の父弘(43)は警防業務に就いていた下流川町(中区流川町・新天地・薬研堀)で被爆し、妻子が運んだ亀山村で29日死去。入市被爆した母クラ代(36)は翌46年5月16日死去。祖父秋松(67)は田中町で被爆し6日死去。
久保 アツコ(12)
広島市段原町(南区)に下宿。実家は安芸郡倉橋島村(倉橋町)
▼明徳小▼8月6日▼遺骨は不明。小学2年だったいとこ清司は「兄に当たる私の父米人が7日、倉橋島から捜しに行きました。3日くらいたった夕方、アツコたちは分からんとうなだれて戻って来ました。いとこや叔父家族の8人が原爆で死にました。アツコさんは祖父の家で大きくなりました。父昭夫さんは戦死です」。
坂本 昌子(12)
広島市白島九軒町(中区)▼白島小▼8月6日▼爆心2・5キロの愛宕町の機関区で被爆した広島鉄道局勤務の父佐一と、自宅にいた母フミコが捜す。遺骨は不明。安佐郡鈴張村(安佐北区)に集団疎開していた小学6年の弟康寿は「学校から戻ると机にそのまま向かうほどの勉強好きでした。私が友達とこまを回したり竹馬で遊んでいる最中も、教科書を朗読する姉の大きな声が聞こえてきました」。
迫 典子(ふみこ)(12)
広島市東白島町(中区)▼白島小▼8月6日▼爆心1・5キロの自宅で被爆した母兼子が8日から捜す。遺骨は不明。県工業学校(現・県工業高)にあった日本製鋼所の分工場に動員されていた2年の兄民了は「母が作業現場跡で見つけた電車の定期券を墓に納めました。妹は時間さえあれば文学全集を読みふけっていました。小さな体にむち打って連日のように動員された揚げ句に死んだのは無念でなりません」▼4日に帰省した東京帝大(現・東京大)1年の兄良(19)は、爆心700メートルの八丁堀電停で被爆し、収容された広島逓信病院で15日死去。三菱重工業広島造船所勤務の姉幸子(17)は出勤途中、爆心700メートルの十日市電停で被爆し、同じ逓信病院で26日死去。
佐々木 和子(12)
広島市東白島町▼白島小▼8月6日▼爆心4・3キロの三菱重工業広島造船所で被爆した父市太郎が捜すが、遺骨は不明。前年に山中高女(現・広島大付属福山高)を卒業した後も女子てい身隊として東洋工業(現・マツダ)に動員され、胸を患い自宅で療養していた姉昭子は「被爆後も3年ほど寝たきりで、両親と妹のことを話す機会はあまりありませんでした。毎日仏壇に手を合わせていた母を倣い、母が逝った20年前から8月6日は市女の慰霊碑に必ずお参りしています」。
末本 繁子(12)
広島市牛田町▼牛田小▼8月6日▼母ツルが9日、同じ組の池田康子の母良子と向かい、一人娘の遺骨をズックとともに納める。91歳になる母に代わり、義理の娘は「池田さんのお母さんが前日に自分の娘さんと一緒に見つけ、その場で遺体を焼いてくださったそうです。繁子さんの形見のズックは玄関にずっと置いていましたが、7年前の火事で類焼してしまいました」。
須郷 光枝(13)
広島市西蟹屋町(南区)▼荒神小▼8月6日▼母サカヱが捜しに向かうが、遺骨は不明。中国から9月に復員した兄春雄によると、20年後に平和記念公園の原爆供養塔に納骨されているのが分かり、母が市から受け取る。モンペに縫い付けていた名札で確認した。市女の銘碑に刻まれる「須郷ミツヱ」は誤記。
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《記事の読み方》死没者の氏名(満年齢)▼原爆が投下された1945年8月6日の住所▼出身小学校(当時は国民学校)、教員は担当科目▼遺族が確認、または判断する死没日▼被爆死状況および家族らの捜索状況▼45年末までに原爆で亡くなった家族=いずれも肉親遺族の証言と提供の記録、資料資料に基づく。年数は西暦(1900年の下2ケタ)。(敬称略)
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瀬尾 光世(てるよ)(12)
広島市大須賀町(南区)。家族で7月に疎開した牛田町から通っていた▼荒神小▼8月6日▼母千代子が10日ごろ、学校で遺骨を受け取る。91歳になる母は「同じ組の池田康子さんのお母さんが作業現場跡で見つけてだびに付し、学校に届けてくださっていました。崩れたお寺の土塀を暁部隊(注・陸軍船舶司令部)の兵隊さんが取り除くと、牛田町から通っていた3人が抱き合うようにして死んでいたと聞きました。
高橋 靜子(12)
広島市的場町(南区)▼段原小▼8月6日▼大阪に出張していた食品卸の父倉吉が戻り8日夕、現在の西平和大橋の東側辺りで見つけ、木片を集めてだびに付す。土手町の婚家先で被爆した10歳違いの姉堤芳子は「父は、妹の名前を書いた見覚えのある革のようなベルトと防空ずきんから分かったそうです。9日に遺骨を鉄かぶとに入れ、私たちが避難していた岩国市に持ち帰りました。妹は私と同じ市女に入学できたことを喜び、日曜日には土手町へ遊びに来ていました。大変気の優しい子でした」。
中島 妙子(13)
広島市土手町▼段原小▼8月6日▼母珪たちと疎開した安佐郡狩小川村(安佐北区狩留家町)から双子の妹法子と作業現場に向かい、共に遺骨は不明。6歳だった妹經子は「母は材木町一帯の焼け跡に何度も行き、後に同級生のお母さんから、胸の名札で妙子と分かった遺体を見たという話を聞きました。戦後、段原に住み、母は落ち着かなくなると、よく平和記念公園に向かっていました。たまらなかったのだと思います」▼会社員の姉毬子(20)は山口町(中区銀山町)の電停で被爆。土手町の自宅へ逃げ、狩小川村で26日死去。
中島 法子(13)
広島市土手町▼段原小▼8月6日▼母珪が、救護所となった陸軍運輸部(南区)にいると聞いて7日向かうが、到着前に似島へ運ばれていた。遺骨は不明。土手町の自宅で被爆した姉幸子は「いとこが6日夕、運輸部で見つけた時は息があり、妙ちゃんは?と尋ねると、『知らん』と精いっぱい答えたそうです」。
難波 章江(12)
広島市矢賀町(東区)▼矢賀小▼8月6日▼元安川の雁木(がんぎ)に倒れていたのを8日、安芸郡中山村から捜しに入った叔父がもんぺに縫い付けていた名札で確認し、遺体を自宅に運ぶ。小学1年の弟日出男は「長女だった姉は、親元を離れて集団疎開していた3人の妹や弟を気遣い、『面会の時に持っていく』と桃を勉強机の引き出しの奥に納めていました。それを知らずに私が食べてしまい、泣いていたと後に母から聞きました」▼爆心900メートルの榎町の知人宅を訪ね被爆した昆布巻き製造販売の父正章(46)は、自力で戻り章江の葬儀後の9月2日死去。「参列者がいなくなった夜、父は姉を抱いて一人号泣し、最期の時も姉や子どもたちの名前を呼びながら死にました」
信時 佳代子(13)
広島市牛田町▼牛田小▼8月6日▼自宅で被爆した母シズ子が9日、寺の倒れた土塀の下から掘り出された遺体を確認。92歳の母は「運のいい子だから死んではいないと捜し歩きました。あの子を見た時、自分を呼び寄せてくれたかと思うと、ありがたいやら、がっかりするやらの両方でした。ズックは飛ばされていましたが、体は焼けておらず6日朝出た姿そのままでした。そこにいた暁部隊の兵隊さんが燃え残りの木を集めてお骨にしてくださいました。普段は『行って来ます』とにぎやかに出るのが、あの日に限っていつ出たのか分からんのです」▼県農務課勤務の父貢(42)は爆心900メートルの県庁で爆死。
野村 富子(12)
広島市白島西中町▼陸軍偕行社付属済美小▼8月6日▼爆心1・7キロの自宅で下敷きとなった祖母クマが親類と6日夕から捜しに向かうが、遺骨は不明。神奈川県高座郡相模原町(座間市)にあった陸軍士官学校にいた兄昌夫は「原爆の5年前に広島陸軍幼年学校に入校してから終戦まで、家族との接触はほとんどありませんでした。親類男性が見つけた妹の同級生から『一緒に作業していたが、後のことは分からない』と聞いたそうです。同級生も数時間後に亡くなられたと聞きます」。
濱田 博子(12)
広島市尾長町(東区)▼尾長小▼8月6日▼防衛召集で爆心1キロの市役所に詰めていた父俊二が重傷を負い、母花枝が作業現場に向かうが、遺骨は不明。5歳だった弟俊彦は「遺骨が見つかっていないばかりか、父が広島市に問い合わせた時には原爆慰霊碑の死没者名簿にも名前がありませんでした。どこかで生きているのでは…。気持ちに区切りをつけられぬまま50何年も過ぎました。私が死ぬまで終わらないと思います」。
福原 晶子(12)
広島市西白島町▼白島小▼8月11日▼自宅の下敷きとなった母操らが2週間後に知人から似島で見たと聞いて捜すが、遺骨は不明。西白島町で被爆した、83歳になる姉花栗富子は「晶子は、長男を実家でお産した私が食糧不足で母乳が出ずに悩んでいたのを察して『もうおなかがいっぱいになった』と、自分の皿を回してくれました。50有余年たっても忘れられません」。昨年の8月6日も呉市から早朝出るバスで市女慰霊碑に参った▼崇徳中付設科の兄隆夫(17)は動員先の安佐郡祇園町(安佐南区)の油谷重工業から市女生徒と同じ新橋西側一帯の建物疎開作業に出て遺骨は不明。めいで富子の長女須美子(5つ)は西白島町で爆死。
藤本 隆子(12)
広島市土手町(南区比治山町)▼広島師範付属小▼8月10日▼被爆後、引率教師や数人の生徒と元安川で一晩過ごし、翌7日昼すぎ自力で帰宅。叔父がいた佐伯郡小方村(大竹市)の病院で10日午後2時50分ごろ死去。爆心1・5キロの自宅で被爆し、86歳になる母知恵子は「隆子は『お母さん、げたをなくしたんよ』と戻って来ました。川につかり『朝明るくなったら、先生も友達もみんな死んどっちゃった。みんなには悪いが、歩けるから帰ってきたんよ』と言いました。口の周りに少しやけどをしたくらいでした。遺体は白い着物を着せて自宅の焼け跡で火葬いたしました」。
藤森 敏子(13)
広島市牛田町▼牛田小▼8月6日▼遺骨は不明。96歳になる母カスミに代わって、爆心1・4キロの広島逓信局(現・中国郵政局)で被爆し翌日捜しに向かった姉淑美は「母と7日午後、赤十字病院の前庭で同じ組の藤井敬子さんを見つけ、妹は元安川に浮かぶ材木につかまり『天皇陛下万歳』と言っていたと聞きました。その後、母が崩れた寺の土塀の下で妹の布帯かばんと、同じ牛田町の池田康子さんの遺体を見つけ、お母さんに伝えました。私を含め姉3人が市女でしたのに、市女に進むのを嫌がりました。虫の知らせだったのでしょうか」。(注・肖像画)
藤井 敬子(12)
広島市東白島町▼白島小▼8月11日▼1、2年生が集合した西福院のとみられる寺の土塀の下敷きとなり「君が代」を歌っていたところを助け出され、赤十字病院から遠縁がいた安佐郡八木村(安佐南区)へ運ばれる。古田町高須の広島航空に動員されていた県立第一高女(現・皆実高)3年の姉久子は「どなたかが浴衣を着せてくださっていました。歯科医だった父貞雄が駆け付け手当てをすると、妹は死を覚悟していたのか、『お父さんに会えたことがこの世で一番うれしい』と話したそうです。11日夜、両親たちと八木村へ向かう途中、村の方へスーと流れて行く火の玉を見ました。遺体は翌日、阿武山のふもとで薪を組んでだびに付しました」▼4日に爆心1・4キロの広島逓信病院(中区東白島町)で生まれた弟宗雄は母幸枝と被爆し、6日死去。
前岡 茂子(12)
広島市猿猴橋町(南区)▼荒神小▼8月6日▼時計貴金属店の自宅で重傷を負った母清子に代わって、父喜三が捜すが、遺骨は不明。戦後生まれのおい眞仁は「祖母は、私が市女の後身の舟入高校への入学が決まった際、大変喜んでくれました。10年前に他界した祖母の遺志を継いで毎年、慰霊祭に参加しています」。
森岡 洋子(12)
広島市桐木町(南区金屋町)▼段原小▼8月6日▼爆心1・6キロの自宅で被爆した母アサヨらが捜す。遺骨は不明。家の戸板に挟まれたのを母に助けられた当時6歳の妹英子は「2年前に逝った母の話では、作業現場跡に姉がいつも履いていたげたの片方がありました。母が着物の切れ端で縫った赤い鼻緒ですぐに分かり、この辺りではと何度も何度も歩いたそうです」。
矢尾 素珠子(12)
広島市牛田町▼牛田小▼8月6日▼母富子らが岡山県に疎開後も牛田町の祖父母宅に残っていた。大阪歯学専門学校(現・大阪歯科大)で教えていた父太郎が向かうが、遺骨は不明。義理の妹になる夕美子は「『夏休みになったら帰りたい』との手紙が疎開先に届いたそうです。義母は『みんな動員作業に出ているのだから頑張りなさい』と書いて送ったのを死ぬまで悔やみ、大阪から慰霊祭に参列していました。私の夫和彦が昭和の終わりごろ、お墓をつくり替えた時に素珠子さんの裁縫箱を納めました」。
安田 淳子(12)
広島市左官町(中区本川町)▼白島小▼8月6日▼遺骨は不明。母ひふ子らと安佐郡鈴張村に縁故疎開していた小学4年の妹幸子は「自宅には父正夫と、東洋工業に動員されていた広島一中の兄、姉の3人が残っていました。父が比治山の勤務先で下敷きとなり、母や兄が似島なども捜しましたが分からず、石を一つ拾って帰り、墓に入れました。」。
山村 京子(13)
広島市矢賀町(東区)▼矢賀小▼8月6日▼町内にあった広島鉄道局広島工機部に勤めていた兄義一が向かうが、遺骨は不明。「妹の名前が碑にあると聞いて10数年前に訪ねると、名前が間違っており、残念というか悔しい気がしました。職業軍人だった父の転勤で昭和16年に旧満州(中国東北部)から戻った家族は、東京と母の実家があった矢賀町で離れて暮らしていました。」。銘碑の「山村恭子」は誤記。
和田 幸子(13)
広島市西白島町▼白島小▼8月6日▼自宅の下敷きになった広島財務局(現・広島国税局)勤務の父石五郎が、もんぺに縫い付けていた名札で遺体を確認。両親に助け出された当時4歳の妹洋子は「父は姉を見つけると髪の毛を切り、もんぺの腰に通していたベルトのバックル、名札を取ったそうです。私は生前の姉の記憶がなく、母シゲヨが親類からもらった写真で姉を知りました。小学校5、6年生のころでした」▼白島小1年の弟宏(6つ)は友達がいた自宅向かいの玄関前で爆死。広島財務局に勤め、爆心380メートルの日本銀行広島支店3階事務所にいた姉芙美子(20)は、結婚後間もなく髪の毛が抜けるなどして47年8月12日死去。
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