中国新聞社
2000/6/22

ヒロシマの記録-遺影は語る
市女1年‐2組


死没者名簿‐2組

東(あずま) 恭子  東(あずま) 恭子(13)
 広島市東雲町(南区)比治山小8月6日陸軍運輸部に勤務し、金輪島に出ていた父貞一が7日から捜すが、遺骨は不明。90歳の母フミコに代わり、当日は自宅にいた安田高女4年の姉博子は「母が体調を崩していたので、恭子も前日までは休んで看病していました。作業現場への道順を母から聞き、モンペをはいて布の袋かばんを斜め掛けにして出て行ったと記憶しています。国民学校時代の書道が1枚残っています。字の上手な子でした」。

石井 朝江  石井 朝江(13)
 広島市宇品町(南区)広島師範付属小8月6日父寿登が捜すが、遺骨は不明。双三郡君田村に集団疎開していた陸軍偕行社付属済美小3年の弟崇雅は「父が後日、もんぺに石井朝江と書いてあった遺体を確認したという先生に会ったそうです。場所は分かりません。幼い子どもと遊ぶのが好きで、幼稚園か小学校の先生になるのを望んでいました」妹の弘子(6つ)は10月12日死去。「姉の初盆に材木町の寺にお参りして原爆のガスを吸ったのだと思います。血を吐き、髪の毛も抜けました」

池本 惠美子  池本 惠美子(12)
 広島市千田町3丁目(中区)千田小8月6日勤務先の爆心2キロの広島電鉄本社で被爆した父十治郎が捜す。遺骨は不明。南満州鉄道に勤め、現地召集された兄孝司は「シベリア抑留を経て原爆から1年後の年の瀬に復員しました。焼けずに残っていた家に入ると、家族8人のため父が作っていた幅1けん(1・8メートル)もある特製のげた箱はすき間が広がっており、きょうだいの死を直感しました。兄3人は戦死でした」。

以南 數子  以南 數子(12)
 広島市仁保町堀越(南区)青崎小8月6日爆心1・6キロの広島駅前郵便局で被爆した鉄道郵便局勤務の父克己が7日、頭に包帯を巻いて捜し、作業現場跡で遺骨を確認。比婆郡庄原町(庄原市)に集団疎開していた小学4年の弟義治は「足首のところに焼け残っていたもんぺの切れ端の柄で確かめ、父がその場でだびに付したそうです。母靜子が前の日にもんぺのゴムを付け替えたので、焼け落ちなかったのだろうと話していました」。

大方 道子  大方 道子(12)
 広島市宇品町広島師範付属小8月6日暖房水道工事業の父三郎と母幸枝らが捜すが、遺骨は不明。母に連れられて歩いた小学2年だった弟幸三は「防火水槽の中や焼け跡に倒れている死体を一人ずつ確かめながら、姉を捜しました。母が『川の方へ行ったんかねぇ』と向かった元安川は無数の死体が川面を埋め、見つけ出すことは無理でした。翌年から、初めは木だった市女慰霊碑に母と欠かさず参っていました。昨年の夏は、兄夫婦と私の家族、米国にいる初孫ら10人が碑の前で午前8時15分を迎えました。8年前に逝った母の遺志を継ぐ者としての務めだと思っています」。

大杉 美代子  大杉 美代子(13)
 広島市皆実町2丁目(南区)皆実小8月6日自宅で被爆した母富子が7日朝から、宇品駅で被爆した広島鉄道局勤務の兄照明が8日から向かうが、遺骨は不明。10月ごろ、母が作業現場跡で左足のげたを見つける。兄は「母が女学生のころの着物の切れ端で作った鼻緒から見分けがついたそうです。表面には、足跡が黒く焼け残っていました」。げたは63年に原爆資料館へ寄贈され、展示されている。

岡本 良子  岡本 良子(12)
 広島市皆実町2丁目広島師範付属小8月6日呉市の軍需工場に勤めていた父虎雄と自宅で被爆した母カズヨが6日夕から捜すが、遺骨は不明。動員先の日本製鋼所西蟹屋工場が電休日だった市女3年の姉恭子は「幼いころから一緒に京橋川で遊びました。シジミを掘ったり、夏はいり大豆を入れた木綿の小袋を水着の腰に付けて泳ぎ、ふやけた大豆を食べたりと昨日のことのように思い出します。私が花模様の便せんを集めて本棚にしまっておくと、妹がいつの間にか友達に配っていました。はしこい、憎めない妹でした」。

大藪 茂子  大藪 茂子(13)
 広島市翠町(南区)皆実小8月6日官舎でガラス片が上半身に刺さった広島高(現・広島大)教授の父虎亮に代わって姉澄子が捜し10日、爆心1・9キロの広島電鉄本社前に張り出されていた軍の遺体焼却名簿に記載されているのを見つける。「姉妹5人のうち4人が市女でした。入学式に付き添うと茂子ちゃんだけがげた履きだったにもかかわらず、あこがれの市女に入れたことを喜んでいました。6日早朝、保育園の当直から帰宅途中に作業へ向かう茂子ちゃんと会い、ご苦労さまと手を振ったのが最後でした」。遺骨は74年、原爆供養塔にあるのが分かり、受け取る東洋製罐(西区天満町)勤務の兄亮(30)は市内電車の中で被爆し18日死去。安佐郡祇園町の三菱重工業第20製作所への出勤途中に被爆した兄博(30)は48年に死去。

大谷 由子  大谷 由子(12)
 広島市昭和町(中区)竹屋小8月6日食糧の買い出しに似島へ向かう途中、市内電車の中で被爆した父吉雄が捜すが、遺骨は不明。病死した母君代の郷里の山県郡原村(豊平町)に縁故疎開していた小学3年の弟恒彦は「昭和町の家は父と姉の2人住まいでした。姉は6日朝も父の弁当を作り、そろって家を出たと聞いています。父は『由子のことを思い出すから女の子を見るのがつらい』と戦後、祖母によく話していたそうです」。

 片山 千鶴子(13)
 広島市宇品町宇品小8月6日旧満州(中国東北部)から復員した父常次郎が郷里の島根県に戻って再婚し、義弟に当たる正之が持つ記録によると、宇品町229番地で6日午後5時ごろ死去。「おやじは戦前は広島市役所に勤めていたと聞いていますが、原爆で死んだ妻と一人娘のことはほとんど話さず、22年前に他界しました。生前は毎年のように8月6日は広島に行っていました」母サ ト(41)は6日死去。

河内 豊子  河内 豊子(12)
 広島市皆実町3丁目皆実小8月6日体調を押して自ら弁当を作り、姉正江のかすりのもんぺをはいて出掛ける。遺骨は不明。爆心4・6キロの陸軍船舶司令部(南区宇品海岸3丁目)に勤め、竹やりの訓練中に被爆した姉は「母ヒデは兵隊を見送りに行った白島町で大やけどを負い、私が向かいました。みんな裸同然で、もんぺのゴムにわずかに焼け残っていた布の切れ端を手掛かりに捜しましたが…。中国で満鉄関係の仕事をしていた父金次郎あてに、集団疎開した弟への送金を依頼する手紙を書くなど家族思いの妹でした」。

北島 郷子<  北島 郷子(さとこ)(12)
 広島市富士見町(中区)千田小8月6日自宅跡からはい出した父勇と母キヨ子が捜し8日、軍が作業現場跡で整理していた遺体の中から、もんぺに縫い付けていた名札で確認。17日に熊本市から復員した兄廣己は「今年が33回忌となる母は戦後は、楽しみごとを嫌い、旅行に誘っても行こうとはしませんでした。母が『郷子は心臓が弱い子だったので、きっと苦しまずに死んだと思う』とぽつり話した姿に親の深い情けを感じました」。焼け残ったもんぺの切れ端=写真=を今も仏壇に納める。

木村 ハルヱ  木村 ハルヱ(13)
 広島市仁保町(南区)仁保小8月6日薪炭商の父大吉が外出先の東雲町で被爆後すぐに向かうが、遺骨は不明。ハルヱ家族と一緒に住み、動員先の日本製鋼所西蟹屋工場が電休日だった市女4年のいとこアイは「工場は昼夜4交代制で私が夜勤明けから戻ると、ハルヱちゃんは学校に行くすれ違いが続いていました。『お国のため』と作業に追われて一緒に遊んだり、ゆっくり話をした思い出はありません」。

久保 昌子  久保 昌子(12)
 広島市新川場町(中区中町)袋町小8月6日遺骨は不明。召集で岩国市にいた兄勇は「母千代子は、妹が前日の作業を休んだので今日は出るようにと一番上の姉武子に言いつけ、江波町の知人の葬儀に参列したと話しておりました。母の言いつけを守ったのか、自宅跡には姉の遺骨しかありませんでした。家は爆心地に近かったのでいても助かっていなかったと思います」爆心1キロの広島財務局に出勤して被爆した父精一(50)は、安芸郡船越町の親類宅で29日死去。住友海上火災保険広島営業所勤務の姉武子(23)は、爆心800メートルの自宅で爆死。

 藏内 公子(ひろこ)(12)
 広島市南千田町(中区南千田西町)千田小8月6日遺骨は不明。92歳になる母は「『お母ちゃんは金づちだから空襲で川に逃げる時は、私が連れて泳いであげる』というのがあの子の口癖でした。最後の朝は、前夜から泊まっていた暁部隊の軍医さんのお世話をしており、娘の出て行く姿は見ておりません。『行ってきます』の声だけでも聞いておれば…。お墓には、学校での合同葬の際に受け取った分骨と、自宅にあった裁縫袋を納めました」。

島村 園枝  島村 園枝(12)
 広島市皆実町2丁目皆実小勤務先の陸軍被服支廠が分散疎開し、己斐町の事務所で被爆した父岩市と母チヌヨが捜す。遺骨は不明。旧ソ連抑留を経て47年10月に復員した兄哲雄は「帰国する1週間前にナホトカで広島への原爆投下を聞きました。妹の死を知ったのは帰郷してからです。両親に『学校の先生になりたい』と話していた妹は、似島へ運ばれたとの話も耳にしましたが、推測の域を出ません」。

 杉山 知子(13)
 広島市富士見町(中区)広島師範付属小8月6日救護活動に従事していた小児科医の父家壽夫に代わり、爆心1・2キロの自宅医院で被爆した母光子が捜すが、遺骨は不明広島女子高師(現・広島大)1年の姉滋子は爆心1・7キロの校舎で被爆し、1年後の46年9月9日、20歳で死去。

 竹本 圭子(12)
 広島市大洲町(南区大州1丁目)比治山小8月6日原爆供養塔に遺骨が納められているのが84年分かり、兵庫県尼崎市に住んでいた母菊乃が受け取る。翠町にあった市立第二高女(現・舟入高)に向かう途中に被爆した当時2年の姉美智子は「母は遺骨を受け取った4年後、昭和最後の夏に逝きました。いつも死んだら真っ先に圭子のところへ行き、抱き締めてやりたいと申しておりました」。

田村 久美子  田村 久美子(12)
 広島市元宇品町(南区)宇品小8月6日父信一と鳥取農林専門学校(現・鳥取大)1年の兄昭二が、火の勢いが衰えた6日夜に入り、作業現場跡で夜明けを待つ。「今の原爆資料館の南側に幅3メートルの大型防火水槽があり、そこに女学生を含む15、16人が折り重なっていました。ただ一人息があり、名札の縫い取りから川上美都璃さん(注・2年2組)と分かって引き揚げましたが午前5時前に息絶えました。妹もベルトの下に縫い付けていた名札で確認しました。転がっていた自転車のサドルと荷台に板を敷いて私がハンドルを取り、父が後ろから押して連れ帰りました。高校教師を退職後に頼まれて一度、平和教育で広島に来た親子たちに体験を話しました。なぜ病院へ連れて行かなかったのかと尋ねられ、途中でやめてしまいました」。

辰原 靜子  辰原 靜子(12)
 広島市皆実町1丁目皆実小8月6日自宅で被爆した保険代理業の父音五郎が捜すが、遺骨は不明。女学院高女に移転していた広島鉄道局審査課に動員され、6日は休みで自宅にいた3年の姉貴美惠は「妹は当日、大豆やひえ入りのご飯とサツマイモ煮の朝食に『遅れるから残す』と玄関まで行きながら、またちゃぶ台に着いて『やっぱり食べていく』と平らげました。食糧が乏しくいつもおなかをすかせていたので、せめてもの慰めだったと思っております。その時妹が使ったはしは洗わずお墓に納めました」3月に結婚したばかりの姉冨士枝(22)は、爆心900メートルの水主町(中区加古町)の自宅で爆死。

田中 弘子  田中 弘子(13)

 広島市東雲町比治山小8月6日広島鉄道局勤務の父正登と母麻野が7日から捜すが、遺骨は不明。91歳になる母は「作業現場そばの元安川で似た上着が目に入れば川に入ったりもしました。弘子に『お母ちゃん、働かんかったら非国民になるよ』と言われ、原爆の1年半前から自宅近くの飛行機部品を作る工場に勤めておりました。私が帰るのを玄関先で待ち受け、『お帰りなさい』と学校で習った手旗信号を見せて迎えました。その姿を思い出すと、いつかは戻ってくるような気がしました」。

《記事の読み方》死没者の氏名(満年齢)原爆が投下された1945年8月6日の住所出身小学校(当時は国民学校)、教員は担当科目遺族が確認、または判断する死没日被爆死状況および家族らの捜索状況45年末までに原爆で亡くなった家族=いずれも肉親遺族の証言と提供の記録、資料資料に基づく。年数は西暦(1900年の下2ケタ)。(敬称略)

槻山(つきやま) 好枝  槻山(つきやま) 好枝(13)
 広島市新川場町袋町小8月19日はだしで比治山まで逃げて夜を明かし、新川場町が避難先にしていた安佐郡可部町(安佐北区)の品窮寺で母にみとられ、19日朝死去。指物師の父栄一は3月に召集され、済州島(韓国)から復員した10月末、7人家族のうち妻子6人全員の死去を知る。「長女好枝からの便りで『住吉神社へお参りし、お父ちゃんの武運長久を祈っています。銃後はしっかり守ります』とあったのを覚えています。96歳になる今も思い出すとたまりません」自宅で被爆した母静子(36)は19日夕、妹美津子(5つ)は18日、弟和雄(3つ)と博三(2つ)は16日、妹昭子(9カ月)は11日、いずれも品窮寺で死去。栄一は「住職の奥さんの話では、妻や子どもたちは自力でお寺にたどり着き、妻は『お父ちゃんがもうすぐ帰ってくるから頑張ろうね』と子どもたちを励ましていたそうです」。

徳田 郁子  徳田 郁子(13)
 広島市宇品町の祖父宅に下宿。実家は似島町(南区)似島小8月6日宇品町で一緒に暮らしていた叔母浜本夏枝が当日午後4時ごろ入り、7日早朝、作業現場南側の県庁前で遺体を見つける。「県庁正門にあった防火水槽の5、6メートル手前で、郁ちゃんがうつぶせになって死んでいるのを見つけました。はいていた私のもんぺの茶色いすそひもが足首に残っているだけで、全身真っ赤に焼けただれていました。抱き上げると左下腹部の傷口から水のような透明な液が流れました。父らを呼びに戻り、火葬は現場でしました。あの日朝、郁ちゃんは『先生が作業へ出るようにとおっしゃった』と空襲警報のサイレンが鳴っていたにもかかわらず、自宅前の停留所から電車に乗りました。力ずくでも行かせなければよかったのにと思います」。

 中野 節子(12)
 広島市皆実町2丁目皆実小8月6日自宅で被爆した父寅衛が捜しに向かうが、遺骨は不明。5歳だった弟健司は「節子と一つ違いの姉満子も市女に通っていました。6日朝、近所に住んでいた1年生のいとこの照子さんと3人がシャベルを持って出掛けて行く姿をおぼろげながらでも覚えています」入営が決まっていた兄博行(年齢不明)は紙屋町(中区)方面に日章旗を買いに行き、遺骨は不明。市女2年4組の姉満子(13)の遺骨も不明。

中野 照子  中野 照子(12)
 広島市皆実町2丁目皆実小8月6日遺骨は不明。東洋工業に動員され、当日は爆心1・6キロの鶴見橋一帯の建物疎開作業中に被爆した県工業学校3年の兄智允は「私は上半身に大やけどをし、戦争が終わったのさえ知りませんでした。両親が死去していたため、隣に住んでいたいとこ節子の父らが捜してくれましたが、2人とも最期は分かりません。8月6日は市女慰霊碑から原爆供養塔、動員学徒慰霊塔、寺町にある墓に参っております」。

中村 容子  中村 容子(12)
 広島市千田町3丁目千田小8月6日高田郡井原村(安佐北区)の父の実家に疎開していた母キヨコが7日に向かうが、遺骨は不明。学校から防空ずきんと弁当箱、分骨を受け取る。縁故疎開していた小学5年の妹妙子は「姉は6月末に母と井原村に移ってきました。しかし、『学校に通うのが大変だから』と8月4日に自宅に戻りました。最期をみていないので、しばらくは姉が死んだとは信じられませんでした」水道工事請負の父磨採(41)は自転車で通り掛かった爆心1・4キロの広島文理科大(現・広島大)前で爆風で飛んできたレンガが頭を直撃し、井原村で21日死去。

 西原 弘子(12)
 広島市南竹屋町(中区)千田小8月6日母シンが向かい、遺体を確認。79年に他界した母が13回忌の追悼誌『流燈』に寄せた手記によると、作業現場跡の電信柱を背に水のない水槽のへりに腰掛けて亡くなっていた。

沼田 弘子  沼田 弘子(12)
 広島市翠町宇品小8月6日兵庫県尼崎市の鉄工所に勤め帰宅していた父延三らが7日から捜すが、遺骨は不明。空襲が続いていた尼崎市から44年、母と弟の3人で父の郷里に移っていた。小学4年だった弟巧は「被災者が集まっていた宇品町の埋め立て地に蚊帳をつり、終戦までいました。半壊した家に宇品の海岸にいるとの張り紙をして、姉の帰りをひたすら願いました」。

野口 芳子  野口 芳子(12)
 広島市皆実町3丁目皆実小8月6日作業現場跡の防火水槽に引率の男性教諭と同級生ら3、4人で死んでいたのを、一緒に暮らしていた伯母中川マサが8日見つけ、兵隊に頼み、その場でだびに付す。3月に市女を卒業後も日本製鋼所西蟹屋工場に動員され、当日は天満町を走る市内電車の中で被爆したいとこ中川弘子は「母が言うには、焼け残っていたズロースのゴムの部分から確認できました。手製の柄物でした。男性は担任の森政夫先生と聞いています。市女の慰霊碑に参ると『野口芳子』と刻まれている部分をさすってやります。本当に早く亡くなったねぇ…と声を掛けてやります」。

原田 瑠璃子  原田 瑠璃子(12)
 広島市松川町(南区)千田小8月6日母トクヨに「元気を出して行ってらっしゃい」と送られ、作業現場へ向かう。遺骨は不明。安佐郡祇園町の三菱重工業第20製作所に動員されていた広島高師付属中(現・広島大付属中高)3年の兄辰範は「今の賀茂郡豊栄町にあった母の里にたどり着き、父の死と妹の不明が分かりました。後日、学校から確か歯を1本と分骨を受け取りました。母は昨年95歳で他界するまで、瑠璃子が体調不良を訴えていたのに送り出し、新しいげたに履き替えさせなかったことを悔やんでいました」陸軍糧秣支廠技師の父光太郎(47)は出張で戻った自宅で被爆し、安芸郡中山村の中山小で6日死去。

馬場 美保子  馬場 美保子(13)
 広島市翠町皆実小8月6日母タカたちと8月4日に疎開した草津東町(西区)の日本発送電(現・中国電力)西広島変電所の社宅から作業現場に向かい、遺骨は不明。小学2年だった弟進は「作業現場跡で『馬場』と書いていた運動靴の片方が見つかり、遺骨の代わりに焼いて墓に納めました」。千葉市の陸軍飛行部隊にいた兄徹あてのはがきと県制定の「體錬簿」=写真=が遺品として残る。7月に書いたはがきは投かんされなかった。

    ◇  ◇

 兄さんお元気ですか。私も家の者も皆元気です。御安心下さい(略)。
 私の學校にもプールがありますが敵機がくるといけないので水をかへられず泳がれません。がまんしております。そちらはどうですか。この間は私は入學して始めて私達の修練道場に行き、薯(いも)をうへました(略)。宮島より奥ですよ。大野修練道場といひます。前には廣島湾をひかへ後には高い山をひかへております。うれしかつたです。
 それから今度は家も草津の方にかはります。お母さんと禎子ねえさん、進、私等の四人ぐらしです。ちかいうちかはります。私達の學校は二時間授業です。早く家にかへるので家事の手傳(てつだい)をしてをります。では又(また)(さようなら)

檜山 春惠  檜山 春惠(12)
 広島市翠町皆実小8月6日遺骨は不明。3人の子を連れて3月から豊田郡久芳村(賀茂郡福富町)の実家に疎開していて、90歳になった母喜美枝は「市女に入りたいと広島に残りました。長女でしっかりしていたあの子が『母ちゃんに会えなくて寂しい』と手紙をよこし、6月20日から2晩泊りがけで戻り、まくらを並べました。それが最後の別れでした。夫は重傷を負い、私も捜してやれませんでした。足腰が元気な限りは市女慰霊祭へ出席するつもりです」。市立造船工業学校(現・市商業高)校長の父琢三は自転車で登校中の舟入本町で被爆し、市女と同じ中島地区の建物疎開作業に動員された1年生は203人が死去。

平野 玲子  平野 玲子(12)
 広島市東千田町(中区)千田小8月6日遺骨は不明。父富夫が勤務し、被爆した爆心1・6キロの広島貯金支局(88年解体)で母美貴子は8日夜に女児を出産。長女玲子が言っていた名前を付ける。妹は「『赤ちゃんが女の子だったら和子と名付けて』と、予定日が6日だった私の誕生を楽しみにしていたそうです。人が死んでいった地下室で命を授かり、事務用はさみを使ってへその緒を切られ、焼けたトタンのたらいで産湯に漬かりました。姉の生まれ代わりと思い、毎年の市女慰霊祭に参列させていただいております」。

藤井 好子  藤井 好子(12)
 広島市新川場町袋町小8月6日山県郡八重町(千代田町)に疎開していた叔父彰らが8日、作業現場跡で遺骨を確認。双三郡田幸村(三次市)に集団疎開していた小学3年の弟敬三は「防空ずきんに縫っていた名前で姉だと分かったそうです。田幸村には7日、広島が全滅したと伝わり、両親や姉、弟の死去は9月22日迎えにきた叔父から聞きました。翌日連れて帰ってもらい、家や作業現場の材木町辺りを歩きました。ただぼう然としました」薬問屋を営んでいた父清(45)と母辰子(40)は自宅で被爆し、彰らが運んだ八重町でそれぞれ17日、22日に死去。弟英典(4つ)は自宅で爆死。

 細川 久子(12)
 広島市平野町(中区)千田小8月6日遺骨は不明。4人家族のうち、母モトと自宅で下敷きとなり重傷を負った兄昭三は「母が引きずり出してくれました。父も県庁付近の建物疎開作業に出ていたのでその一帯をだいぶ捜し歩いたそうです。私は収容された似島から佐伯郡の五日市町、廿日市町、宮島へと運ばれ、終戦の日に千田町の大学グラウンドにバラックを建てていた母と合流しました。妹は市女で水泳選手になるのが夢でした」中国新聞社厚生課勤務の父儀一(57)は爆心900メートルの県庁北側の建物疎開に動員され、遺骨は不明。「家も焼け2人の写真、遺品などは全くありません」

松岡 正子  松岡 正子(12)
 広島市鷹匠町(中区本川町2丁目)の伯父宅に下宿。実家は佐伯郡高田村(能美町)高田小8月6日母久子が6日昼、子どもが広島市内の学校に通う親たちと船を借りて向かう。88歳になる母は「野宿同然で1週間捜しましたが、何の手掛かりもなく…。ただただ涙が出るだけでした。多分パッと散ったんだと思います。6つの年に父親が他界し、弟4人をみてくれ私の手助けになっていました。一日とて忘れたことはありません。一番ためになるええ子でした」会社員の伯父早志哲雄(55)は自宅で爆死。いとこの市女教諭早志裕子(22)の遺骨は不明。

山根 弘子  山根 弘子(13)
 広島市宝町(中区)竹屋小9月4日自宅の下敷きになっていた母君代を見つけ、助けを呼ぶため祖父がいた安芸郡戸坂村(東区)へ向かう。9月4日午後3時25分ごろ祖父宅で死去。義姉の露子は「結婚後に義母から聞いた話では、弘子さんは作業現場から傷一つせずに戻り、妹の美佐子さんと戸坂村の川で泳ぐほどだったと聞きました。13年前に他界した義母は『あんなに元気だった娘2人が突然に血を吐いて逝くとは…』と、思い出しては涙をこぼしていました」竹屋小5年の妹美佐子(10)は9月9日、戸坂村の祖父宅で死去。

吉村 淳子  吉村 淳子(12)
 広島市比治山本町(南区)広島師範付属小8月6日双三郡庄原町に集団疎開していた妹を訪ねていた父哲三が7日戻る。木挽町の寺跡で弁当箱が見つかるが、遺骨は不明。動員先の三菱重工業広島機械製作所で被爆した広島二中3年の兄和磨は「当日は、祖母がなけなしのご飯にきな粉をかけた弁当を持たせました。原爆の前年に母が電車から落ちて死亡し、6人きょうだいの長女として妹や弟の面倒をみていました。楽しみもなく終わった生涯を思えば悔しいものがあります。

若狹 珠江  若狹 珠江(12)
 広島市新川場町(中区小町)袋町小8月6日遺骨は不明。小学2年だったいとこ重成は「互いに母を病気で失い、一人っ子だった珠江さんは、母のように姉のように私をかわいがってくれました。学校の相撲大会では土俵そばから声援を送り、私が新川場の祖父母宅に寄ると鉛筆を削り、算数を教えてくれました」父清一(38)は勤めていた爆心520メートルの安田銀行(現・富士銀行)広島支店で爆死。祖父捨次郎(75)と祖母ワサ(67)は自宅で爆死。

 【詳細不明】
 安藤 淑子
 井手口殷子
 小林 純子
 宮崎 禮子


1組 3組 4組 5組 6組 教員 新たに確認された死没者名簿 昭和20年8月6日罹災関係 経過日誌 1年5組入多正子さん 妹あての手紙