新井(にい) 恵子(13)
広島市南観音町(西区)▼観音小▼8月6日▼爆心2・5キロの自宅で被爆した父光男と母節恵が向かう。遺骨は不明。95歳になる父に代わり、生後4カ月だった弟光彦は「姉は体調を崩しており、父から休むよう言われながら、迎えにきた友だちと気づかないうちに出たそうです。父は悔やむように話していました」。
猪垣 政子(12)
広島市舟入幸町(中区)▼舟入小▼8月6日▼母チヨノや弟たちが疎開していた佐伯郡鹿川村(能美町)を泊まりがけで訪ねて5日、広島へ船で戻る。遺骨は不明。小学4年だった弟彰は「母は帰りを延ばすよう言いましたが、まじめすぎて動員作業をさぼることができなかったようです。港へ向かう姉に手を振って見送ったのを覚えています」▼父翁助(48)は警防団員として建物疎開作業に動員され、6日死去。舟入地区の住民は爆心1キロの市役所に隣接する雑魚場町(中区国泰寺町)一帯に出ていた。
◇ ◇
召集され宮崎県にいた市女数学教諭の平田美光にあてた8月1日付のはがきが残る。
水にこひしい暑い夏となりました。軍服姿も勇(いさま)しい先生お元氣だそうで何よりです。「南瓜(カボチャ)で僕を思ひ出してください。」といはれたあの南瓜は今大きくなつて二つ三つの實(み)をどれもつけております。先生が見られたらさぞ喜ばれる事だらうと思つております。まだどの先生も兵隊に出ていられません。
砂古先生(注・砂古国夫教諭、1・2年生と作業現場に出て遺骨は不明)を中心に二十六日よりプールが開かれて今は眞(ま)最中であります。明日の午後は私達一年が泳ぎます。午前が二年生で代(わ)る代るです。先生がおられたら面白いだらうと思つております。
では中須賀先生(注・担任)のいひつけをよく守り一年で指折(り)の立派な組になることを誓ひ致します。
先生の御武勲を祈りて さようなら
今井 圭子(13)
広島市西観音町2丁目(西区)▼観音小▼8月6日▼遺骨は不明。3歳だった弟捷夫は「10年前に他界した母幸子は、家族が元気でいた戦前のことは話しても、原爆については全く触れませんでした。家の下敷きになった私たち4人の子を助け、佐伯郡地御前村(廿日市市)に避難したものの父や姉は行方不明となり、一緒にいた子どもは次々と死ぬ。耐えられなかったと思います」▼複写紙製造商会勤務の父巖(42)は町内の義勇隊として爆心900メートルの県庁一帯の建物疎開作業に動員され、遺骨は不明。市女3年の姉律子(15)は動員先の日本製鋼所西蟹屋工場が電休日だったため自宅におり、9月30日死去。自宅で被爆した妹規子(6つ)と迪子(2つ)もそれぞれ8月30日、10月7日に死去。
岩本 ハル(12)
佐伯郡五日市町楽々園(佐伯区)▼五日市小▼8月6日▼遺骨は不明。陸軍少将の父高次が中国にいたため、母チヨノが向かい元安川西側でアルミ製の弁当箱を見つけ、墓に納める。4月、広島高師付属中(現・広島大付属中高)2年から陸軍幼年学校へ進み熊本にいた兄一郎は「広島に戻れたのは8月30日の晩でした。薄暗い玄関から仏壇に灯明がともっているのが見え、原爆で家族のだれかが死んだと直感しました。生きては帰れまいと思っていた14歳の私は、仏壇に手を合わせると涙があふれました」。
大藤 博子(13)
広島市南観音町▼観音小▼8月6日▼遺骨は不明。その朝、ちゃぶ台を囲んだ市女専攻科の姉美智子は「私はみそ汁をついでやりました。『お母さん、シャベルある?』と言う博子に、母ノブは『そんな重たいものは県庁の方まで下げていかりゃあせん』と十能を持たせました。健康優良児で幼いころから学芸会でも何でも一番でやる子でした。原爆の日になると、前の晩に一緒に冷やして食べた桃を供えます。生きている限りは、市女慰霊碑へのお参りを続けるつもりです」。
沖永 昌美(12)
広島市舟入川口町(中区)▼舟入小▼8月6日▼遺骨は不明。土木建築請負の父静一は旧満州(中国東北部)、母咲子やきょうだいは高田郡三田村(安佐北区)にいた。女子てい身隊として出ていた佐伯郡小方村(大竹市)の三菱化成工業(現・三菱レイヨン)から捜しに入った、いとこ俊子は「作業現場跡を当てもなく歩き回り、兵隊さんたちが死体を焼くのを遠目に見て通り過ぎるだけでした。私の両親が病死後、一緒に暮らしていました。昌美さんは幼いころからピアノを習っており、私が上手ねと褒めると、にっこり笑った姿を覚えています」。
梶山 壽美子(13)
広島市庚午町(西区)▼草津小▼8月6日▼農業の父啓一が向かうが、遺骨は不明。軍属として吉島本町(中区)の陸軍飛行場で経理事務をしていて被爆した姉八重子は「母アキノが上の姉の結婚式に付き添い朝鮮半島から戻る7月に船ごと爆撃され、父が一人で毎日捜しました。むごくて見られたものではないと、私たちは行くのを止められました。妹は元気な子で、防空ずきんに水筒を持参し、喜んで通学していました。黒焦げの弁当箱が集まったところに遺骨が固まってあったそうですが、父は妹は弁当の番をするような子ではないと言いました」。
勝井 靖枝(12)
佐伯郡厳島町(宮島町)▼厳島小▼8月6日▼呉服店を営む父九一が一人娘を捜しに向かうが、遺骨は不明。大正時代から続く店を受け継いだ、いとこの政男は「昨年暮れに東京に住む市女時代の同級生という方が店を訪ねてきました。靖枝さんが編んでくれた毛糸の手袋を大切に持っていたと話され、自分が元気で生きているのは申し訳ないと言って帰られました。叔父が他界して25年。初めてのことでした」。
金村 幸子(12)
広島市舟入幸町▼舟入小▼8月6日▼爆心1・3キロの自宅で被爆した父順藏が向かうが、遺骨は不明。左官町(中区本川町1丁目)の精米機製造会社へ出る準備をしていた姉美年子は「妹が家を出た時はまだ床に就いていました。見送った上の姉の話では、妹は『今日は怖いからもんぺを2枚はいてくね』と言って出たそうです。前夜から空襲警報が続いていたので炎天下の作業にもかかわらず、もう一枚もんぺをはくことで用心したのだと思います。月に必ず一度は市女慰霊碑にお参りしております」。
上川 恭子(12)
広島市皆実町2丁目(南区)。祖母らといた古田町高須(西区)から通っていた▼千田小▼8月6日▼父良一が疎開中の高田郡甲立町(甲田町)から7日向かうが、遺骨は不明。戦後、学校から弁当箱と救急袋を受け取る。甲立町にいた小学3年の妹昌子は「3月に家族で疎開する際、姉は『市女に行きたいから』と祖母らが高須に借りた家へ移りました。母道子が市女の卒業生だったのであこがれていたのだと思います。毎年一度は市女慰霊碑へ参りますが、最期をみていないので姉が死んだという実感はいまだにありません」。
岸 美穗子(13)
広島市南観音町▼己斐小▼8月6日▼帰省していた鳥取農林専門学校(現・鳥取大)1年の兄〓二に続き、捜しに入った県職員の父弘毅らが7日朝、水主町(中区加古町)の元安川右岸の雁木(がんぎ)で死んでいた二女を確認。兄は「先生を囲むように倒れていた5、6人の生徒の中にいたそうです。私は6日夕に本川橋西詰めまで入ると、妹の同級生や後輩の二中1年生たちが『兵隊さん』と助けを求めるので、見るに見かねて一夜を橋のたもとで明かしました。焼けただれて鼻とも口とも分からなくなった子に水を与えたり、寒さを訴える子を残り火の近くに引きずったりと、あのむごさを思い出すと胸が張り裂けそうになります」。
木谷 礼子(12)
佐伯郡厳島町▼厳島小▼父友吉と母キミヨが7日、二女の遺体を自転車で連れ帰る。3歳だった妹孝子は「亡き両親の話では、捜しに来た宮島の人に『ここにいるから』と伝えたそうです。遺品となった弁当箱が今もあります。建物疎開作業には行きたくなさそうだった姉に、母は遅刻するよと送り出したと言います。広島市内の女学校に行かさなければよかったと話していました」。
桐原 幸子(ゆきこ)(12)
広島市東観音町1丁目(西区)。入学後は安佐郡可部町(安佐北区)の叔母宅から通っていた▼観音小▼8月6日▼自宅の下敷きとなった母智恵子が8日から作業現場一帯を捜すが、遺骨は不明。13回忌の追悼誌『流燈』に「生きていれば もうママになってるかも知れないけど でもそんな姿は お母さんには 想像も出来ない 貴女(あなた)はいまでも 十二歳の可愛い笑顔で生きている」と寄せた。小学3年で山県郡南方村(千代田町)に縁故疎開していた弟誠一は「8年前に他界した母はわれわれには話したがりませんでした。姉が『広島はきれいな水の都だからアメリカは空襲しない』と語っていたのは聞きました。しっかりしていたような気がします」。
栗栖 三枝(みつえ)(13)
広島市舟入川口町▼舟入小▼8月6日▼自宅近くの爆心2キロの山陽木材防腐(現・ザイエンス)で勤務中に被爆した父肇が、水を入れた一升瓶を携え捜す。遺骨は不明。佐伯郡河内村(佐伯区)へ疎開した金属工場で戦闘機尾翼の製造に就いていた実践高女(現・鈴峯女子高)3年の姉喜久子は「妹は幼いころ社宅の前を通る若い女性職員の靴にあこがれ『女学校を出たら、私もかかとの高いのを履くんだ』と話していました。下着の替えや必要な物だけを入れる空襲用の非常袋にもブラウスを納め、警報のサイレンが鳴ると必ず持って防空ごうに入りました。生きていれば今もきっとおしゃれを楽しむと思います」(注・肖像画)
久留井 京子(12)
広島市舟入幸町▼舟入小▼8月6日▼歯科医の父一彦が爆心1・5キロの自宅で一緒に被爆した妻と子の4人を連れて逃げ、8日ごろから捜す。遺骨は不明。小学2年だった弟正明は「姉は両親に『空襲があって私が帰ってこなくても、お国のために死ぬのだから悲しまないで』と話していたそうです。あの時代の教育と、動員作業で将来を考えるゆとりもなかったのだと思います。遺影は市女入学を記念して撮ったものです」。
郷田 智子(13)
佐伯郡五日市町海老塩浜(佐伯区)▼五日市小▼8月6日▼母タマ子が似島(南区)も捜すが、遺骨は不明。5月に西部第二部隊に入営し、朝鮮半島から復員した兄融照は「妹は『頭が痛い』と作業を休みたがったそうです。自宅病院が将校の寄留先となっていた手前、母は行かさざるを得なかったと悔やむように言っていました。妹との今生の別れは軍用列車で下関へ向かう車中の窓からでした。妹は、近所の退役軍人から出発日時を聞いて自宅近くの踏切に一人で立ち、笑顔で手を振りました。私も周りを気にしながら小さく手を振り返しました。生き死にが逆になってしまい、何とも言えません」。
児玉 紀子(としこ)(12)
佐伯郡観音村(佐伯区)▼観音小▼8月6日▼父静一と母ツネヨらが向かうが、遺骨は不明。広島師範学校(現・広島大)の寮に住み、陸軍船舶司令部に動員されていた兄博人は「皆実町(南区)で被爆し後輩を連れて7日、家に戻ると妹は帰っていません。私も捜しに行きましたが、手掛かりは全くありませんでした。後日、ほかの親ごさんから、川のへりまで逃げたとの話を聞きました。妹は泳げなかったので川へ入っても流されたと思います」。
新川 登美代(13)
広島市東観音町2丁目▼観音小▼8月6日▼佐伯郡地御前村の軍需工場に徴用されていた兄誉登が6日午後、作業現場の西側を流れる本川対岸の西地方町(中区土橋町)で担架に乗せられていたのを見つける。米寿になる兄は「駆け付けると妹は既に息絶えておりました。やけどはしておらず生前の姿そのままでした。一人では遺体を運べず、近くにいた兵士にすぐ戻るからと告げ、三篠本町(西区)にいた親類を連れて戻ると焼かれた後でした。もしものためにと、見つけた時に納めた髪の毛ともんぺの切れ端を墓に入れました」▼町内の別宅に住んでいた祖父亀蔵(80)は爆死。
瀬戸 怜子(13)
広島市観音本町(西区)▼観音小▼8月6日▼父の応召後は、母と姉との3人でいた自宅を県立可部高女(現・可部高)3年の姉暘子と連れ立って出る。遺骨は不明。軍靴工場に動員されていた姉は「可部線の古市橋駅から歩いて戻り、自宅で被爆した母みどりと会えたのが午後7時ごろでした。翌朝向かいましたが、7日目にはあきらめました。同級生のお父さんが見たという、川に入り『お母さん』と呼んでいた5、6人の中に妹がいたそうです。学校に集められた遺品の中に母が作った鼻緒のげたが片方ありました。あの朝、妹に手を振って以来、人と別れる時は決して手を振りません」。
田村 英子(12)
広島市古田町古江(西区)▼古田小▼8月7日▼母アヤ子と祖母スミが6日夕、道々の電柱が燃える中を突いて入り、本川の雁木で見つける。江波小の運動場で7日午前2時ごろ死去。88歳になる母は「長女の名前を叫ぶと、倒れていた子どもたちの中から両手を挙げました。目はつぶれ、胸の辺りに下着がわずかに残るだけ。本当に英子なの?と思わず尋ねました。私のもんぺを着せて母と交代で背負い、途中からは兵隊さんの大八車で江波の陸軍病院を目指しました。雁木にしがみついていた両手の指はこわばっており、それでも『弁当を作ってもらったのに焼けてしまった』などと一生懸命話しました。運動場で手当ての順番を待つうち逝ってしまいました。迎えにきたご近所の方の大八車で連れ帰り、先祖のお墓に埋葬いたしました」。
長(ちょう) 知子(12)
広島市古田町高須(西区)▼陸軍偕行社付属済美小▼8月6日▼爆心地一帯に出た両親と姉も死去し、遺骨不明が続く。7万柱を納める原爆供養塔に「長良子」と間違って書かれたとみられる女学生の遺骨があるのが分かり、遺族が93年末に引き取る。横浜市に住む兄正連の妻尚子は「1文字の違いから慰霊祭で訪れるたび市役所へ通いました。高須時代の隣人の尽力もあり、ようやく50回忌の年に親子4人そろっての法要が営めました」▼東京から家族7人で転勤し、広島石炭会社勤務の父直連(47)は68年、供養塔に納骨されていたのが分かる。母文子(39)は古田町から動員された爆心900メートルの小網町一帯の建物疎開作業で被爆し、8日死去。県産業奨励館(原爆ドーム)にあった内務省中国四国土木出張所(現・中国地建)勤務の姉郁子(18)は、運ばれた己斐小(西区)で7日死去。
塚村 幸子(12)
広島市舟入幸町▼観音小▼8月6日▼自宅縁側で生後2カ月の長男公行のおしめを替えている最中に被爆した母秩子が捜すが、遺骨は不明。母の背に負われて焼け跡を回ったという公行は「母は一人娘だった姉のことはほとんど口にしないまま15年前に他界しました。いつもトマトを買っては仏壇に供えていたので姉の好物だったのでしょう。私も毎年8月6日はトマトをお供えし、市女の慰霊祭に参列しています」。
|
|
《記事の読み方》死没者の氏名(満年齢)▼原爆が投下された1945年8月6日の住所▼出身小学校(当時は国民学校)、教員は担当科目▼遺族が確認、または判断する死没日▼被爆死状況および家族らの捜索状況▼45年末までに原爆で亡くなった家族=いずれも肉親遺族の証言と提供の記録、資料資料に基づく。年数は西暦(1900年の下2ケタ)。(敬称略)
|
坪井 恒子(12)
広島市古田町古江▼古田小▼8月6日▼自宅にいた日本赤十字社広島支部勤務の姉郁子らが7日、担架を携えて向かい、爆心1キロの天満川左岸の土手で遺体を収容。姉は「橋を渡ってもがれきにふさがれて進めず、川沿いをう回すると、男の子2人とあおむけに並んでいた遺体がありました。もしやと思い近づくと、もんぺの腰の部分にいつもつけていた鈴が目に留まり、妹と分かりました。あの中で妹を見つけられたのは、奇跡としか思えません。家まで連れ帰り、天井板を外してお棺をつくり、近くの山で焼きました」。
永井 美枝子(12)
佐伯郡廿日市町大東(廿日市市)▼廿日市小▼8月6日▼三和銀行勤務の父幸太郎が6日夕、作業現場跡に入り一夜を明かす。8日は母友枝も向かい、元安川の土手下で長女を見つけ、だびに付す。安佐郡祇園町の油谷重工業に動員されていた崇徳中3年の兄淳一郎は「91歳になる母は、数え切れない死者の中から見つけられたのは偶然でなく、当人が呼び寄せたからと言います。抱き起こすと鼻から急に鮮血が出て、生きて今まで待っていてくれたような思いがしたそうです。妹は将来は学校の先生になりたい、戦争が終わったら、おなかいっぱいになるほど食べたいとよく言っていました」。
中尾 絢子(じゅんこ)(12)
広島市南観音町▼観音小▼8月6日▼44年開所した三菱重工業広島機械製作所へ神戸市から転勤した父市松が捜すが、遺骨は不明。機械製作所厚生課勤務の姉智子は「家族の心配をよそに妹は広島にすぐ慣れ、市女に入学後は『同じ組の桐原さん(注・桐原幸子)と新川さん(新川登美代)で、中桐新という3国同盟を結んだ』などと楽しそうに話し、両親を安心させていました。3人の名前が刻まれる市女の慰霊碑に手を合わせると、妹が生きていたあのころを思い出します」。
原田 幸枝(13)
広島市東観音町▼神崎小▼8月6日▼遺骨は不明。市女遺族会の13回忌名簿に遺族として載る竹田春記の長女雅子は「職業軍人だった幸枝さんのお父さんが戦死し、お母さんと同じ会社にいた私の父が原田さん親子のお世話をしていた関係からです。私も市女の後輩に当たる幸枝さんと姉の由子さんを妹のように思っていました。発起人の一人として死没生徒の名前を刻んだ銘碑が85年にできた時には、他の肉親遺族と同じように姉妹2人の名前をさすり涙しました」▼町内にあった昭和金属工業勤務の母美智(年齢不明)と市女3年の姉由子(15)も爆死したとみられるが、詳細は不明。
福永 翠子(すいこ)(13)
佐伯郡五日市町吉見園(佐伯区)▼五日市小▼8月6日▼出勤途中に被爆した陸軍中佐の父海漕と東京から帰省していた早稲田大の兄英彰が6日昼、作業現場跡で見つけ、戸板に乗せて遺体を持ち帰る。4歳だった妹の玲子は「姉はその日たまたま大きな水筒を持って行っていたので分かったそうです。鼻の頭と足の甲が黒く焦げていたほかは外傷はなく、生前のままの姿だったと聞いています。母貞恵は、勉強も運動もしっかりしていたとよく話していました」。
福永 道子(12)
広島市南観音町▼観音小▼8月6日▼おいになる将来は「道子さんの母久子と姉英子が似島の方まで捜したが、遺骨は見つからなかったと聞いています」。同級の福永翠子はいとこ。
藤岡 範子(13)
広島市西観音町1丁目▼観音小▼8月6日▼自宅の下敷きとなった母トシ子が、広島二中(現・観音高)5年の兄卓治を連れ佐伯郡大野村(大野町)の親類宅まで避難した後、捜しに戻るが、遺骨は不明。兄は「両足と左腕にやけどを負い、捜せませんでした。胸を患っていた私ですら学校で下級生の指導という動員があり、妹と話す時間もほとんどありませんでした」▼祖母ミヤ(68)は自宅で下敷きとなり、遺骨は不明。真策(24)は広島師団司令部(45年6月、中国軍管区司令部に組織替え)に入営し、遺骨は不明。
藤村 栄子(12)
広島市舟入川口町▼呉市・五番町小▼8月6日▼呉海軍施設部に勤務していた父三郎に代わり、母セツ子が子ども3人を連れて疎開していた安佐郡安村(安佐南区)から7日向かうが、遺骨は不明。小学4年だった妹裕子は「安村へ7月ごろ来て、『大雨で庭の防空ごうが水浸しになり、しまっていた服が台無しになった』と泣きべそをかいていました。それが姉と会った最後でした。母は感傷的なことを私たちにも一切口にしませんでしたが、気づかないうちに姉の遺品を原爆資料館へ寄贈していました」。
船越 恵子(14)
佐伯郡小方村▼小方小▼8月6日▼被爆2年後の夏、木挽町(中区中島町)にあった西福院の土塀跡を整地中、遺骨が名前入りの定期券やくしととともに見つかる。小学2年だった弟の三郎は「原爆の翌日に父光が小方村から自転車で向かい、作業現場跡でもんぺの柄から姉と判断した遺骨を比治山町(南区)の多聞院に納めていました。その後に見つかったのも含め、2人分の遺骨を一緒に供養させていただいております」。
古田 喜久江(12)
広島市舟入川口町▼舟入小▼8月6日▼動員先の三菱重工業広島機械製作所で被爆した山中高女4年の姉波津子が7日、町内に住む市女同級生の兄たちと向かうが、遺骨は不明。「作業現場跡では皆、体中が焼けただれ、妹はどこにいるのかと焦る一方、変わり果てた姿は見たくない恐怖感が込み上げてきました。あの情景を思い出すのがつらく、広島に住みながらいまだに市女慰霊碑へ足を運んだことはありません」。
正岡 英子(12)
広島市西観音町1丁目▼観音小▼8月6日▼中国配電(現・中国電力)に勤め、佐伯郡廿日市町方面に出ていた父勝己が7日から捜すが、遺骨は不明。比婆郡東城町に集団疎開していた小学5年の弟輝三は「19年前に他界した父は『遺骨は学校から分けてもらったが、だれのものか分からん』と話していました。突っ込んで詳しいことを聞くと、顔をしかめ、話したがりませんでした。5人の子どものうちただ一人の娘でした」。
松村 光子(てるこ)(13)
広島市舟入幸町▼舟入小▼8月6日▼遺骨は不明。父勉は41年に召集され、母キクヨが6月に病死した後は、祖母ミツノと弟や妹の世話をしながら通学していた。6日が母の49日だったことから縁故疎開先から戻り、爆心1・5キロの自宅で被爆した小学2年の妹伸子は「長女だった姉は、弟が赤ん坊のころの熱病で脳障害になったことから『学校の先生になって面倒をみる』とよく話していました。腎臓を患い伏せっていた母のために、空襲警報のサイレンが鳴るなか氷を買いに出るなど、人一倍家族思いの姉でした」▼祖母ミツノ(76)は自宅近くの畑で被爆し、10月2日死去。弟茂(11)は12月28日死去。
◇ ◇
遺品となった手帳には、時間割や「教(おしえ)ヲ受ケル先生ノ名前」と担当科目、上着ともんぺの名札のつけ方を図案入りで記し、裁縫や買い物をする姿を色鉛筆で描いていた=写真。家族の名前の次のページには「身長132センチ、體重(たいじゅう)27・5キロ」とある。妹は「今の子どもを考えると、こんな小さな体で動員に出ていたんです」。
松本 晴美(12)
広島市宝町(中区)▼段原小▼8月6日▼遺骨は不明。舟入町の自宅で被爆した叔母の横田和歌子は「晴美の家族は父親の仕事の関係で中国におり、広島で勉強するため、祖母がいた宝町から通学していました。5日は母の妹に当たる私の家に泊まりにきて、作業に出て行きました。県庁方面を捜しましたが、何も見つかりませんでした」。
南島 多賀子(12)
広島市観音本町。母たちと疎開していた佐伯郡五日市町から通っていた▼観音小▼8月6日▼天満町の足袋製造会社で重傷を負った父清太に代わり、母貞子と日本製鋼所に動員されていた県工業学校(現・県工業高)2年の兄義宏が7日から捜すが、遺骨は不明。兄は「顔立ちや言葉遣いも日ごとに少女らしくなっていました。その妹が前日、私が工場から帰ると『海水浴に行こう』と飛びついてきて、五日市の海岸で日暮れまで遊びました。貝殻を踏んだのか左足を引きずり、肩を貸してやりました。休ませておればよかったと、思い出せば悔やみます」。
元田 洋子(13)
広島市水主町▼中島小▼遺骨は不明。義姉に当たる佐与子は「夫の猛が神奈川県から9月ごろに復員すると、両親や妹、弟の5人が死んでいました。ベルトのバックルが見つかったという話を聞いたことがあります。洋子ちゃんの兄も学徒動員で被爆しており、だれも捜せなかったのではないかと思います」▼教師の父寅松(43)は自宅で被爆し、妻を連れて逃げた古田町古江の知人宅で19日死去。母鶴子(32)は7日死去。自宅の下敷きとなった弟の實(7つ)と寛(1つ)は6日死去。
森田 子(12)
広島市南観音町▼観音小▼8月6日▼爆心170メートル、現在の平和記念公園レストハウス内にあった産業設備営団勤務で6日は非番だった父繁一と、母スミが自宅で被爆後に向かうが、遺骨は不明。9月に福岡県から復員した兄侃二の妻越子は「結婚後間もなく子さんの話になった際、亡き夫が一通の手紙を見せてくれました。確か『お兄さん、お国のために頑張ってください。私も頑張ります』と応召中の夫にあてたものでした。家に戻れたら礼を言おうと、肌身離さず持ち歩いていたそうです」。
山田 千歳(12)
広島市西観音町1丁目▼観音小▼8月6日▼遺骨は不明。46年に台湾から復員した兄良雄は「昭和19年の夏、妹が『お兄ちゃん、これが来たよ』と、笑顔で差し出したのは台湾へ陸軍要塞(ようさい)重砲兵として入営を命じる通知書でした。顔は少女らしくなっていても、中身の意味は分からなかったと思います。母と一緒に千人針(注・女性が1枚の布に赤糸で1針ずつ刺して縫い玉をつくり、無事を祈ったもの)を渡してくれたのが、最後の別れでした」▼木箱製造の父米吉(63)と母鶴子(47)は自宅で爆死。
山本 皓子(てるこ)(13)
広島市庚午北町(西区)▼光道小▼8月6日▼義兄が捜しに向かい、母秀子が広島電鉄高須駅で二女の帰りを待つ。実家にいた姉の佐々木恒子は「通り掛かった兵隊さんから皓子の定期券を見せられた母は『すぐ連れて行ってください』と頼みましたが、遺体は山のように積んで焼いたので分からなくなっていると言われたそうです。シュミーズが手に入らず、私が布団のシーツで作ったのを当日は喜んで着て出ました。広島駅に向かう途中に被爆した父栄吉は夕方つえをついて戻り、妹の姿がないのを知るとコップを投げつけ、それは男泣きしました」。
横田 令子(12)
広島市西観音町2丁目▼観音小▼8月6日▼遺骨は不明。戦後生まれの義理の妹は「15年前に他界した父からは原爆や、死んだ令子さんの話も聞いたことはありません。私が幼いころ首にあったケロイドのことを尋ねると、普段は温厚な父が声を荒らげました。私も夫や子どもに原爆に関係することは話しません」。
米田 久子(12)
広島市千田町1丁目(中区)。母トシ子たちと疎開していた佐伯郡五日市町楽々園から通っていた▼大手町小▼8月6日▼一人自宅に残り、下敷きとなった父粂三らが浴衣や缶詰を携えて捜し8日、長女の定期券や財布、防空ずきんを見つけるが、遺骨は不明。安佐郡祇園町の三菱重工業第20製作所に動員されていた広島高師付属中3年の兄正幸は「妹は前日まで夏風邪をこじらせて3日ほど休んでいました。妹の風邪がうつった私が6日は動員作業を休み、妹は前の晩に食事ができるようになったからと作業に出ました。4年前に他界した母は行かせたのを悔やみ、母の前では原爆の話は決してしませんでした」。
吉田 茂子(13)
広島市西観音町2丁目▼観音小▼8月6日▼自宅で被爆したカキ養殖業の父栄と母シズコが捜す。3歳だった弟皖は「姉の遺骨が見つかったかどうかを含め、両親から原爆の話はあまり聞いていません。母は、他界する5年前まで私が車で送り迎えするなどして、必ず毎年8月6日は市女慰霊碑に線香をあげに行っていました。寝たきりになった晩年の5年は私が代わりに参り、母の死とともに区切りをつけました」。
若狭 泰子(12)
広島市大手町から草津南町(西区)に疎開していた▼大手町小▼8月6日▼歯科医の父一雄が町内の救護所で負傷者の手当てをし、翌7日から捜す。2年後の夏、現在の平和記念公園南側にあった西福院とみられる塀の下から遺骨が見つかる。小学4年だった妹信子は「名札で姉と分かり、そばにあった財布やくしなどもお墓に納めました。当日は級友の荷物当番で日差しを避けてお寺の塀西側に座っていて、下敷きになったようです」▼母一枝(32)は草津南町の国民義勇隊として小網町一帯の建物疎開作業中に被爆し、6日夜死去。
渡辺 毅子(たけこ)(12)
広島市観音本町2丁目▼観音小▼8月6日▼母マサが自宅にいた息子2人を連れて佐伯郡地御前村方面へ避難した後、市内に戻り捜すが、遺骨は不明。小学3年だった弟栄幸は「両親と子どもの5人家族でした。長女だった姉は優しく、祭りの縁日で自分の小遣いを出してシャボン玉を買ってくれました」▼県内政部衛生課勤務の父信吉(38)は県庁で被爆し、敷地内の防空ごうで6日死去。
渡辺 玲子(12)
広島市千田町から佐伯郡五日市町に移っていた▼千田小▼8月6日▼大阪で小学6年の前半まで一緒に暮らしていた叔父が5日晩に訪ねて来て、夜遅くまで話し、翌6日は走って電停へ向かう。遺骨は不明。県立第一高女(現・皆実高)4年の姉桂子が7日、妹のアルミの弁当箱を納める。「私が針の先で名前を彫っていたので分かりました。作業現場跡は死体をまたいで歩かなくてはならないほどで、兵隊が山のように積んでガソリンをかけては焼いていました。妹はあの朝、『隣の人も休むので私も休む』と言い、母タカにたしなめられ後ろを振り返り、家を出たそうです」。
【詳細不明】
網谷 明子
岩脇満洲子
鈴木 綾
谷野 陽子
中村 麗子
春藤 靜子
横山 啓子
和田 芳子
|
|