中国新聞社

2000/6/28

ヒロシマの記録-遺影は語る
広島市女


新たに確認できた死没者(遺影提供も含む)


【1年3組】
菅野 郁子 菅野 郁子(12)
広島市下柳町(中区橋本町)幟町小8月6日材木町南側一帯の建物疎開作業に動員 された。遺骨は不明。分散教室で被爆した小学2年の妹弘子は「近所のおじさんが被爆直 後に姉と出会い、一緒に逃げたと母アイ子に伝えました。姉は途中で歩けなくなり軍のト ラックに乗せられたと聞き、母は救護所を回りました。私の誕生日の8月1日に白いご飯 が出たので、8月30日生まれの姉は『私の時にもお願いね』と母に言いました。ご飯を 炊くと仏壇に供え、手を合わせております」。

【1年4組】
菅野 郁子 谷野 陽子(12)
広島市草津南町(西区)兵庫県・塚口小母チカヨが作業現場跡で長女のげたを見つけるが、遺骨は不明。小学1年だった弟信治郎は「私たち家族は尼崎市に住んでいましたが、父の死去で、母の郷里である草津に原爆の2カ月前ごろ移りました。母は生前、『陽子のげたかどうかは分からないけど、見覚えがあるから持って帰った』とよく話していました」。

【1年6組】
名前 河野 由美子(13)
遺骨は不明。遺影は、死没記録を掲載した6月23日付「広島市女1年(下)」を見た出 身小の天満小同級生から寄せられた。

名前 的場 豊美(13)
広島市広瀬北町(中区)広瀬小遺骨は不明。佐伯郡砂谷村(湯来町)に縁故疎開して いた小学6年の妹和枝は「父は昭和17年に戦病死し、疎開の荷物を自転車で運ぶ仕事を していた母も被爆の2カ月後に逝き、私一人になりました。結婚後は、農作業と子育てに 追われながらも毎年8月6日に湯来町から広島に出て原爆慰霊碑に欠かさず参りました」 母ヒフミ(32)は爆心1・1キロの自宅で被爆、長女豊美を1週間捜してから戻った砂谷 村の実家で10月2日死去。

【教員】
名前 森 政夫(37)
広島市翠町(南区)数学担当自宅で被爆した妻ハルエが12日、学校で遺骨を受け取 る。7月に豊田郡大乗村(竹原市)に縁故疎開した小学3年の長男一夫は「1年2組の担 任だった父は、防火槽で生徒さん数人を火から守るように覆いかぶさって死んでいたそ うです。仏壇には昭和18年元日にしたためた遺書がありました。一人息子の私を『能力 に応じて無理のないよう育てるように』と記してあります」。


1組 2組 3組 4組 5組 6組 教員 昭和20年8月6日罹災関係 経過日誌 1年5組入多正子さん 妹あての手紙