秋山 嘉子(13)
広島市大手町9丁目(中区大手町5丁目)▼大手町小▼8月6日▼双三郡川西村(三次市)に疎開していた祖母秋山キチらが向かうが、遺骨は不明。三菱重工業広島造船所で動員中に被爆した修道中4年のいとこ佐々木博は「防空ごうに隠れながら学校を訪ねた祖母が『秋山』と書かれたズックの片方と分骨を受け取りました。一人娘をかわいがっていた伯父夫婦も被爆死し、一家全滅です」▼広島郵便局勤務の父誠一(50)は爆心直下の細工町(中区大手町1丁目)に出て遺骨は不明。母キクヱ(41)は、爆心1・4キロの自宅で爆死。
阿戸 ハルミ(12)
広島市中島本町(中区中島町の平和記念公園)。佐伯郡宮内村(廿日市市)の母ヤスコの実家から通っていた▼中島小▼8月6日
▼遺骨は不明。前夜を姉や兄が残っていた自宅医院で過ごし、空襲警報が続いたため帰りが未明になった小学4年の弟憲爾は「その日は見送りの母を振り返りながら出て行ったそうです。希望に満ちて書いたと思われる習字=写真=と、6月1日から7月2日までのアサガオを観察した絵日記が遺品となりました。夏はアサガオを育てて仏壇に供えています」。慰霊碑にある「阿戸ハルヱ」は誤記▼市女4年の姉周子(かねこ)(16)は、昼夜4交代で動員されていた日本製鋼所西蟹屋工場が電休日のため自宅にいて爆死。崇徳中2年の兄晃(13)は、爆心800メートルの八丁堀一帯の建物疎開作業に出て6日夜死去。
阿部 眞琴(12)
広島市舟入仲町(中区)▼神崎小▼8月6日▼母シズ子が『流燈』に寄せた手記によると、水筒を取りに引き返し、母から「裏のお兄ちゃんに貸しているからもらって来なさい」と言われ、「いい」と答え、水をくんだ瓶を持って出る。市立造船工業学校教諭の父真幸らが捜すが、遺骨は不明。94歳になる母に代わって、島根県仁多郡馬木村(横田町)に疎開していた小学3年の妹和子は「姉は入学して初めて休みになったと訪れた馬木村から5日に戻りました。祖母らと引き留めると『明日は建物疎開作業だから休めない』と兵隊さんのトラックに乗せてもらい、手を振って帰って行きました」。
阿部 桂子(12)
広島市大手町8丁目(中区大手町4丁目)▼大手町小▼8月6日▼遺骨は不明。爆心1・2キロの酒卸の自宅で被爆し、90歳になる母壽万惠は「家の下敷きとなり捜してやれず、あの子にかわいそうなことをしました。『お姉ちゃんと同じ学校に行ける』と喜んで通っていました」▼弟秀荘(生後10カ月)は5日、疎開先の安佐郡川内村(安佐南区)から母と戻り、自宅で爆死。
◇ ◇
市女3年の姉壽子(96年死去)が、被爆直後に捜しに向かった様子を50回忌に記した手記の一部から。 先程水を汲(く)んだ崩れた家から下駄(げた)を片方づつ拾い、県庁橋(注・万代橋)へ行きました。市女の生徒がいっぱいで、元安川の両側の砂浜には海老(えび)を干した様に真(っ)赤になった残酷な姿の中を、『一年三組の阿部桂子』と叫んで歩きました。『阿部さんとはさっき迄(まで)いっしょでしたが分からなくなりました』。皆気持ちは確かで、クラスも名前もハッキリ答えてくださいます。『ここへも死んどって…』と言うと『生きてます』と明るく答えられ、可哀相(かわいそう)なことを言ったと、今でも思っています。
石通 郁子(13)
広島市国泰寺町(中区)が建物疎開となり白島九軒町に移っていた▼袋町小▼8月6日▼遺骨は不明。己斐町に一部疎開していた東洋製罐の工場に動員されていた山陽中3年の兄照雄は「祖父がいた安佐郡安村(安佐南区)へ避難する途中に、倒壊した家からはい出した母繁子と出会いました。母は被災者でごった返す古市橋駅で日が落ちるまで妹を待ち、安村に着いても一晩中起きていました。建設会社勤務の父太郎はインドネシアに派遣されており、祖父と私が翌朝から捜しに行きました。妹は私より背が高く元気な子で、市女の卒業生だった母も入学を心から喜んでいました」。
奥田 恭子(12)
広島市河原町(中区)から疎開していた山口県玖珂郡和木村(和木町)の母の実家から通っていた▼神崎小▼8月6日▼応召の父秋雄に代わり、母ハル子が向かうが、遺骨は不明。その年4月に生まれた弟尚之は「3年前に逝った母は、姉が6日朝に家を出る時、私がいつになく泣いていたとよく話していました。姉は、妹が幼いころ病死したので生まれたばかりの私を大変にかわいがり、ふろに入れるなどよく面倒を見てくれたそうです」。
大内 郁子(12)
広島市胡町(中区)。両親たちと疎開していた安芸郡中野村(安芸区)から通っていた▼幟町小▼8月9日▼父赳夫が自転車で向かい9日、爆心1・4キロの広島逓信病院の廊下で見つける。5歳だった弟修は「父は人づてに『せいしん病院』に収容されていると聞いて佐伯郡五日市町の精神病院へ行ったところ見つからないので、もしやと思って逓信病院へ回ったといいます。廊下に横たわっていた人が、姉はさっきまで息をしていたのにと伝えたそうです」。父は病院の診療録に赤鉛筆で走り書きし、長女の遺髪=写真=を包んだ。走り書きには「昭和廿年八月九日/広島逓信病院にて/被爆者中より探し當(あ)て/当時既に絶命す/即ちに遺髪を携え帰る/遺体は当夜ダビに附す」とある。
大橋 妙子(12)
広島市大手町9丁目▼千田小▼8月6日▼自宅近くで背中一面にやけどをした県水産業会勤務の父好男が捜すが、遺骨は不明。金輪島の野戦船舶本廠補給部に女子てい身隊として出ていた姉美代子は「父が、母や弟たちのいた豊田郡戸野村(賀茂郡河内町)の親類宅へ7月に疎開させたら、妹は勉強がしたいと戻って来ました。6日朝そろって家を出た際、おとなしい妹が『昨日の建物疎開作業で、目の前にいたおじさんが倒れてきた家の下敷きになって死んだ。私も死ぬかもしれない』としきりに話すので、ばかなことを言わないでとたしなめると、ほっとした表情を浮かべました。あまりに寂しく悲しい会話で別れたと思います」。
海部(かいべ) 純江(13)
広島市舟入町(中区)▼神崎小▼8月6日▼41歳で召集され、呉にいた広島市議の父惠一郎が9日、軍の命令で兵士の消息調査に入った際に捜すが、遺骨は不明。山県郡南方村(千代田町)に集団疎開していた小学5年の弟嘉彦は「広島に残っていた母たちは5日に南方村へ疎開する予定でした。しかし、あてにしていたトラックが徴用になり、3人全員が死にました。姉が市女を受験する際、両親が家庭教師を頼み、私もそばで勉強したのを覚えています」▼母フ
ミコ(36)と妹敏江(1つ)は自宅で爆死。
香川 美智子(12)
広島市河原町(中区)▼神崎小▼8月6日▼己斐町の山中に疎開していた陸軍糧抹支廠の精米工場に動員され、爆心2・5キロの己斐駅近くで被爆した広陵中3年の兄昭四郎らが7日から捜すが、遺骨は不明。「作業現場跡では、兵隊たちが死体を材木のように積み上げ油をかけて焼いていました。妹がいるのではと思い近づくと、作業がはかどらないからこらえてくれと許してもらえず…。その場を後にした時の悲しい、腹立たしい気持ちは忘れられません。兄2人にもまれた妹は『大人びたのから幼稚なのまでいろんな子が集まっているから楽しい』と母頼子の母校でもある市女に喜んで通っていました」▼金網製造の父
一惠(41)は、町内から国民義勇隊として爆心900メートルの小網町一帯の建物疎開作業に出て9日死去。800メートルの自宅で被爆した母頼子(35)は8日、救護所となった舟入小の前で二男昭四郎らと出会い、運ばれた双三郡十日市町(三次市)の親類宅で9月2日死去。
梶山 都(12)
広島市大手町6丁目(中区大手町3丁目)▼大手町小▼8月6日▼警防業務に就いていた爆心1・7キロの広島西消防署で被爆した酒卸の父米一と母ノブが捜すが、遺骨は不明。米一と戦後に結婚したツヤコは「作業現場一帯を名前を叫びながら捜したそうです。同級生は見つかっても、長女の都さんは分からなかったと話していました。賀茂郡河内町に帰郷した夫の元へ大手町時代の店員さんが訪ねて来られ、その方が帰られた後に『忘れようと思うとるのに…』と畑仕事にひたすら精を出しました」▼母ノブ(44)は町内の義勇隊として建物疎開作業に動員され、佐伯郡五日市町の知人宅で9月2日死去。5日に帰郷した日本大2年の兄俊夫(21)は母と作業に出て13日死去。自宅で被爆した祖父留三郎(68)は12日死去。祖母サダ(65)と留三郎の妹カメ(63)は爆死。
河村 栄子(12)
広島市京橋町▼幟町小▼8月6日▼陶器卸の自宅で被爆した母ハヤミと徴用で陸軍運輸部に出ていた父鉄三郎が7日から捜すが、遺骨は不明。89歳になる母は「制服がそろわず、姉の子が県女時代に着ていたもので通っていました。それでもうれしいばかりで、夕食の時に友達の話をして主人も喜んでおりました。あの日も防空ずきんを肩に掛けさっさと出ました。主人と歩き回り、赤十字病院でも『栄はおらんかー』とおらびましたが、分からんでした。足が悪く、ここ5、6年は慰霊祭にはよう行けんですが、月に1回はお寺さんに来てもらっています」。1組の河村和子はいとこ。
菊田 初子(12)
広島市水主町(中区住吉町)▼神崎小▼8月6日▼倒壊した自宅からはい出た父と母キクヱが6日昼すぎ、現在の広島国際会議場辺りで遺体を見つけ、だびに付す。安芸郡奥海田村(海田町)の第11海軍航空廠に勤めていた兄義春は「妹はその朝は、替えがなかったのか慌てていたのか、2つ違いの弟悛一の下着をはいて出たそうです。両親は、顔形が分からないほど焼けていた妹のなきがらを下着に縫い付けてあった弟の名前から確認したそうです」▼神崎小5年の弟悛一(10)は登校途中、爆心1・4キロの住吉橋近くで被爆し、母が背負って運んだ広島陸軍病院江波分院で7日死去。
北丸 喜代子(13)
広島市上柳町(中区上幟町)▼幟町小▼8月6日▼遺骨は不明。自宅の下敷きとなった父要はけがをした弟の子を賀茂郡西条町(東広島市)の実家に運び、母春子が焼け跡で子ども2人の帰りを待つ。呉海軍工廠水雷部に動員され、8日戻った市立第一工業学校4年の兄忠夫は「母から妹が帰ってこんと言われ、中国新聞や福屋百貨店と、遺体が並べられた場所の壁に張り出された名前を見て回りました。男とも女とも区別がつかず、どう判断すればいいのか分かりませんでした」▼一緒に暮らしていた叔母歳子(31)は爆心1・4キロの自宅で洗濯中に爆死。
北山 俊江(12)
広島市西地方町(中区土橋町)▼神崎小▼8月6日▼遺骨は不明。応召で熊本県にいた兄義幸は「10月に復員して父俊造に家族の最期を尋ねると、口を閉ざしました。汽船会社に勤め宇品港で被爆した父は、重傷を負った母を実家に運び、みとるのが精いっぱいで、妹がいた辺りは全滅と聞いて捜すのを泣く泣くあきらめたのではと思います」▼母カツノ(48)は爆心700メートルの自宅で被爆し、俊造が運んだ佐伯郡沖村(沖美町)の実家で13日死去。山中高女専攻科の姉照枝(16)は自宅の下敷きとなり、6日死去。
木本 嘉代子(13)
広島市尾道町(中区大手町2丁目)▼中島小▼8月6日▼元安川を西に渡った自宅近くの作業現場に出て爆死。第二総軍司令部(東区二葉の里)に勤めていた姉美代子は「建物疎開で尾道町に移る前の材木町に住んでいたころの知人が、妹の遺骨や着衣などを届けてくださいました。焼けていなかった定期券の中には仏像の写真があり、信心深かった妹のめい福を祈りました」。銘碑にある「北本嘉代子」は誤記▼東洋製罐勤務の父健一(47)と、母キミコ(42)は、材木町から6月に転居した尾道町で爆死。
木田 登代子(13)
広島市江波町(中区)▼江波小▼8月6日▼近所に住む伯父大山栄市が向かう。栄市の二男の豊は「同じ組にいた幼なじみの山本冨貴惠さんと防火水槽に頭を突っ込んでいたそうです。父は登代子のなきがらを大八車に乗せて6日夕連れ帰り、江波の砂浜で漁船に使う軽油をかけて焼きました。男の子5人の病死に続き、叔父の戦死、残った娘の原爆死で叔母さんは一人となり、再婚後は私が木田の家を継ぎました」。フィリピンで郵便業務に就いていた父房一は、連合軍捕虜への救援物資を運び、帰る途中の民間船が45年4月1日に撃沈された阿波丸事件の犠牲者の一人。
久保 美枝子(12)
広島市上流川町(中区幟町)から東雲町に移っていた▼幟町小▼8月8日▼爆心3・5キロの自宅近くの工場で被爆した砥石(といし)製造業の父久と母サワノが翌7日、元安川の雁木にうずくまっていた三女を見つけ、父が背負い連れ帰った自宅で8日朝死去。呉市の第11海軍航空廠に動員され、のどを患い帰宅していた姉信香は「妹は川に逃げ、水が引いたので雁木に上がったそうです。負傷者を満載した軍のトラックが通りかかり、乾パンを分けてもらったと言いました。全身やけどの妹は帰る途中は2、3歩ごとに痛みを訴え、最期は『お母さん、ハスの花がきれいに咲いとるよ。私、見てくる』と息を引き取りました。自宅の天井板を外し、猿猴川沿いの畑で火葬しました」。
阪本 昭子(13)
広島市中島本町▼中島小▼8月6日▼原爆供養塔に遺骨があるのが75年ごろ分かり、姉美弥子が納める。納骨に付き添った美弥子の長女中川明美は「15センチ四方の木箱には、小さな骨と遺髪、母が書いていた名札が入っていました。母や私と同じような赤茶けた色の髪に、見ることのなかった叔母とのつながりを感じました」▼調髪所を営んでいた父環(49)は爆心200メートルの自宅で爆死。母イワ(42)は、運ばれた賀茂郡西条町の傷痍軍人広島療養所(現・国立療養所広島病院)で9日死去。
佐藤 喜美子(13)
広島市舟入仲町▼神崎小▼8月6日▼爆心1・3キロの自宅でガラス片が全身に突き刺さった桐箱製造の父宗義が7日、妻子4人を疎開させていた佐伯郡砂谷村(湯来町)の妻の実家にたどり着く。代わって母ユウが9日に向かうが、遺骨は不明。義理の妹になる悦子は「7年前に他界した義母は、まず自宅跡を捜した後、学校に立ち寄ったそうです。あきらめてくださいと先生に言われたそうですが、それでもと思って作業現場跡に行ったが、何の手掛かりも見つけられなかったと話しておりました」。
澤田 スミ子(12)
広島市大手町7丁目(中区大手町3丁目)。一人で疎開していた安佐郡祇園町北下安の伯母宅から通っていた▼大手町小▼8月6日▼遺骨は不明。予科練に志願し、山口県の部隊に戻る途中の広島駅で被爆した兄義夫は「7月の最後の日曜日、伯母宅から帰っていた妹と1年ぶりに会いました。近くの元安川で夕涼みしたのに、何を話したか記憶にありません。家族を奪った原爆を忘れようと生きてきましたから。ただ、子どもだと思っていた妹が、兄の私と話すのに恥ずかしがるようなしぐさを見せて…。そのいじらしい姿が目に浮かびます」▼三菱重工業広島機械製作所に出ていた指物師の父清二(44)は、近くの理髪店で被爆し、救護所となった市役所で10日死去。母ミサヨ(40)は、自宅近くの爆心900メートルの日本発送電中国支店で被爆し、新橋東詰めで夫にみとられながら7日死去。祖母ライ(74)は親類宅へ出掛け、遺骨は不明。
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《記事の読み方》死没者の氏名(満年齢)▼原爆が投下された1945年8月6日の住所▼出身小学校(当時は国民学校)、教員は担当科目▼遺族が確認、または判断する死没日▼被爆死状況および家族らの捜索状況▼45年末までに原爆で亡くなった家族=いずれも肉親遺族の証言と提供の記録、資料資料に基づく。年数は西暦(1900年の下2ケタ)。(敬称略)
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渋谷 壽恵子(13)
広島市材木町(中区中島町の平和記念公園)▼中島小▼8月6日▼安佐郡深川村(安佐北区)に疎開した布団組合に勤めていた父三次郎が、作業現場跡で五女の防空ずきんを見つける。遺骨は不明。爆心1・8キロの楠木町3丁目のゴム工場で被爆した姉文子は「妹は材木町の南側で5日の日曜日も壊された家屋の後片付けに出ていました。母とどちらがいうこともなしに見に行きました。かわらのかけらを一生懸命に運んでいる妹に、しっかりやりんさいよと声を掛けました。その母も…。戦時下とはいえ、翌日のことを思えば平和な日曜日でした」▼母スギノ(43)と県地方木材株式会社勤務の姉光子(18)は自宅
で爆死。
白井 洋子(12)
広島市舟入町▼神崎小▼8月6日▼遺骨は不明。爆心1・4キロの安田高女に勤め、校舎の下敷きとなった姉美知子は「荷物を移していた己斐町で3日目に洋子を除く家族4人が落ち合いました。東洋製罐に徴用で出ていた父美登が捜しましたが、行方知れずでした。母は逃げる時に、橋に立って泣いたんよと何度も何度も言いました」▼爆心1・2キロの自宅で被爆した母美佐子(45)は9月5日昼前に死去。母と一緒に被爆した弟一弘(6つ)は、その約3時間後に死去。
炭本 朝子(ともこ)(12)
広島市舟入仲町▼神崎小▼8月6日▼自宅の下敷きとなった母君子らが7日早朝から捜すが、遺骨は不明。爆心約2・5キロの桐原容器工業所で被爆した山陽中3年の兄午郎は「6日は母と江波町のイチジク畑で夜を明かし、元安川に架かる万代橋から土手沿いに入りました。5、6年たっていとこの夫から、本川橋西詰めで倒れていた女学生の胸の名札に『炭本朝子』とあったのを見たと聞きました。私も本川橋を渡っていたのに…。焼けただれた死体が折り重なっていた作業現場跡から、妹が本川橋までたどり着いていたとは考えもつきませんでした」。
高田 寿美子(12)
広島市河原町▼神崎小▼8月6日▼一人娘が建物疎開作業に就いた中島地区と本川を隔てた自宅で被爆した母宰が捜すが、遺骨は不明。7月で90歳の母は「『行って来ます』と出た後のことは不明です。家からはい出し、はだしで夜通し歩きました。『おばさん、私のお母さんを呼んで』『水をください』と言われ、耐え切れませんでした。寿美ちゃんはとにかくええ子でした」。
竹永 利子(13)
広島市舟入仲町▼神崎小▼8月6日▼33回忌に当たる77年、原爆供養塔の納骨名簿を伝えた中国新聞の連載記事を通じ、「竹中利子 舟入仲町 学生」との遺骨があるのを知った父庫一と母フタヨらが市に連絡し、86年にフタヨが受け取る。家を継ぎ利子の義弟に当たる光雄は「両親は6人の子どものうち5人が原爆の前に病死し、四女の利子さん一人だけがいました。その利子さんの最期を尋ねるのはどうしてもつらく、詳しい話はあまり聞いていません」。
中田 頴子(ひでこ)(14)
広島市江波町▼江波小▼8月6日▼爆心410メートルの本川橋の下で重傷を負った父芳松に代わり、母貞子が船で川を上り入るが、遺骨は不明。前の晩に安芸郡戸坂村から戻った小学4年の妹裕巳は「姉は級長をしており、おなかの調子が悪かったのにずる休みだと思われたくないと出ました。6日は江波の夏祭りで帰っておすしを食べるつもりで、誘いに来た同じ組の木田登代子さんと山本冨貴惠さんもお弁当を置いて行きました。母に言われてその晩、私が弁当箱を返しに行きました。山本さんたちが防火水槽で見つかったと聞いて、母はまた行きましたが、何も見つからずじまいでした」。
中近 千勢(13)
広島市堀川町(中区)▼袋町小▼8月6日▼爆心700メートルの洋装店自宅で被爆した母貞子らが捜すが、遺骨は不明。女学院専門学校(現・広島女学院大)1年だった叔母三宅千代子は「姉の家に遊びに行くと、2軒隣の尺八屋さんの中学4、5年生くらいの息子さんが、よく千勢に勉強を教えていました。はた目にもほほ笑ましく、姉はゆくゆくはと思っていましたのに…」▼母貞子(32)は娘たちを捜すために往復した安芸郡府中町の実家で25日死去。千代子は「姉は昼前、泣きながら実家まで逃げてきました。一緒に下敷きになった長女勢子の叫び声が聞こえたが、火の手が迫り助けられなかったと言いました」。市女3年の姉勢子(14)は、動員先の日本製鋼所西蟹屋工場が電休日で自宅にいて爆死。妹利美(5つ)の遺骨は不明。
西本 弘子(13)
広島市江波町▼江波小▼8月6日▼ノリとカキの養殖を営む父徳次郎らが漁船で入る。元安川に架かる橋で、母ウタが浴衣をほどいて縫ったシュミーズの切れ端が引っかかっているのを見つけたが、遺骨は不明。豊田郡安浦町の海兵団に4月入営していた兄勇は「衣羽(えば)神社の夏祭りで朝からみこしや露店が出ており、妹は作業を休みたがっていたと聞きました」。200余年前から続き、かがり火をたいた漁船が旧暦の6月29日に本川を上がる衣羽神社の「火祭り」はこの年、8月6日に当たっていた。
野崎 和江(13)
広島市小網町の自宅が建物疎開となり、東隣の西新町(中区土橋町)に移っていた▼神崎小▼8月6日▼爆心800メートルの転居先で被爆した母房子が捜すが、遺骨は不明。父伝次郎と兄明の応召後は、母と姉との3人暮らしだった。山口高商(現・山口大)から広島野砲部隊へ入営となり、9月に高知県から復員した兄は「母の死に目にも会えず、妹の同級生と思われる頭の骨らしきものを学校で受け取りましたが、割り切れぬ思いです。母は娘2人の死を確かめ、ただ一人残った子どもの私に会いたいと言いながら逝ったと聞いています。毎年1度は東京から帰省し、原爆供養塔や市女慰霊碑に参ります」▼母房子(41)は西新町の転居先で実践高女(現・鈴峯女子高)4年の長女道江(16)と被爆し、道江は即死。房子は、夫の妹で1組にいた国村美佐子(12)の母クラ代と捜し歩き、安佐郡飯室村(安佐北区)の親族宅で25日死去。
藤田 愛子(12)
広島市大手町9丁目。母ヨシノたちと疎開していた安佐郡安村から通っていた▼大手町小▼8月6日▼遺骨は不明。5つだった妹澄子が父と姉を失った6年後に書いた作文は、広島文理科大学長だった長田新が占領下に編んだ子どもたちの手記集『原爆の子』(岩波文庫)に収まる。「母と兄は、まい日まい日よるおそくなって、つかれて帰って来られる。私は、その顔を見るたびに、がっかりするのだ。母の話をきくと(略)多くの生徒は、にげるために川にとびこんだけれども、やけどをしていたので、みんな死んでしまった。うかんでくる市女の生徒の死体は、制服もぼろぼろになっていて、顔の色は茶色にこげており、だれがだれだか、さっぱりわからなかったそうだ。私の姉も、きっとその中にいたのでしょう」▼
酒類卸の父勝三(50)は、自宅に寄った愛子を自転車で作業現場に送ったらしく、遺骨は不明。
堀田 絢子(あやこ)(12)
広島市石見屋町(中区幟町)▼幟町小▼8月6日▼高田郡吉田町の疎開先から帰宅途中だった母クマヨらが捜すが、遺骨は不明。爆心710メートルの福屋百貨店7階にあった広島貯金支局分室に動員されていた広島女子商(現・安芸女子大付属高)3年の姉弘子は「母と弟たちが4月に疎開した後は、父と妹との3人暮らしでした。妹に炊事の手伝いをするように言うと、『私は何でも食べるんじゃけぇ』となかなか台所に立とうとしません。今思えば、まだ子どもでした。幼い死に胸が痛みます」▼畳製造の父貞次郎(49)は天
満町の統制組合事務所へ向かい、遺骨は不明。
松島 百合子(12)
広島市河原町▼神崎小▼8月6日▼爆心2キロの広島工専で被爆した1年の兄正昭らが捜すが、遺骨は不明。比婆郡庄原町の伯母宅へ7月末に疎開した小学3年の妹美耶子は「入学試験から戻った姉が、市女にいた上の姉に試験のことを尋ねられて『うん、できたよ』と声を弾ませていた光景を覚えています。髪をおかっぱに切りそろえ女学校に通い始めたばかりだったのに、本当に無念だったと思います。原爆で逝った両親や姉、兄たち7人の分まで生きてあげたい。それが供養にもなると思いながら生きております」▼
薬剤師の父正(47)は爆心900メートルの小網町一帯の建物疎開作業に出て、長男正昭が運んだ佐伯郡五日市町の知人宅で9日死去。自宅の下敷きになった母妙子(44)は25日、姉孝子(21)は28日、庄原町で死去。一緒にいた市女4年の姉政子(16)の遺骨は不明。修道中2年の兄省三(14)は爆心1キロの市役所そばの雑魚場町の建物疎開作業に動員され、収容された江波小で22日死去。兄正昭は被爆9年後の54年4月2日、26歳で死去。
水野 洋子(12)
広島市三川町(中区)から打越町(西区)に移っていた▼袋町小▼8月6日▼爆心1・5キロの大手町9丁目の食品会社で被爆した父作一が7日から捜すが、遺骨は不明。転居先で被爆し、89歳になる母シズ子は「いつもより30分早く『行ってきます』と防空ずきんを持ち、笑顔で出たあの子に手を振りました。最後の朝は、何年たとうと忘れられません。あの子からのお金(戦傷病者戦没等援護法に基づく学徒遺族への年金)をいただいとりますから、3人の子どもに迷惑を掛けず、わがままな一人暮らしをどうにかさせてもらっております。あの子のおかげだと感謝しておるしだいです」。
宮原 美佐子(12)
広島市吉島羽衣町(中区)▼中島小▼8月6日▼石炭統制会社勤務の父義人と一緒に自宅を出て作業現場に向かい、遺骨は不明。爆心2キロの広島駅近くにあった事務所へ着く手前で被爆した父は、自転車で赤十字病院から焼失した自宅跡を回り、たどり着いた市女で連絡がないと聞いて、さらに作業現場を捜す。自宅で被爆した市女4年の姉五月子は「疎開していた母に代わって、私が配給の大豆を柔らかくたき、ご飯を混ぜた弁当を持たせました。父は、1、2年生は元安川の方に向かってかたまって倒れ、見られた状態ではないと言いました」。
宮本 和子(12)
広島市鉄砲町(中区上幟町)▼幟町小▼8月6日▼芸備銀行(現・広島銀行)勤務の父邦夫が6月に召集され、自宅の下敷きとなった母マツコが捜すが、遺骨は不明。市女専攻科を3月に卒業し大手町小で教え、母と一緒に被爆した姉康子は「妹は、私がスカートを布団の下に敷いて折り目を付けていたのをまねて、もんぺを毎晩のように敷いていました。木綿のもんぺは折り目がすぐ消えてしまうので、私や弟がからかうと決まり悪そうに笑っていました。あの時代の少女として考え付く、できる精いっぱいのおしゃれだったと悲しく思い出します」。
森田 恵美子(13)
広島市大手町8丁目(中区大手町5丁目)▼大手町小▼8月6日
▼佐伯郡五日市町の畑でサツマイモを栽培していた呉服商の父百太
郎が7日から捜すが、遺骨は不明。足をねんざしたため動員先の陸軍被服支廠へ出る前に寄った赤十字病院で被爆した、広島女子商3年の姉百合子は「原爆の16年後に他界した父は折に触れ、『恵美子は苦しかっただろう、かわいそうに。生きていれば今ごろは…』と、数えの14で逝った娘の成長した姿を思い浮かべていました。生きていれば私と同じように孫に囲まれているだろうと思うと、やりきれなくなります」▼東京から西部
第二部隊へ転属になった兄武夫(24)は西練兵場(中区基町)で被爆し、収容された大野陸軍病院で28日死去。爆心1・3キロの自宅で被爆したおい淳司(1つ)は運ばれた徳山市の母の実家で29日死去。
矢川 伸子(12)
広島市材木町。祖母や弟といた佐伯郡八幡村(佐伯区)の疎開先から通っていた▼中島小▼8月6日▼遺骨は不明。佐伯郡廿日市町(廿日市市)に縁故疎開していた小学6年の妹喜代子は「動員現場が自宅近くだったため、姉は5日の晩は材木町の家に泊まったそうです。両親と久しぶりにまくらを並べ、さぞやうれしかったと思います」▼紙器製造の父常藏(43)は自宅で爆死。母アサノ(37)と妹
博子(1つ)も自宅で被爆したとみられるが、遺骨は不明。
保田 節子(12)
広島市河原町。祖母や妹たちと疎開していた安佐郡祇園町長束から通っていた▼神崎小▼8月6日▼前日に泊りがけで来ていた母キクヨと連れ立って疎開先を出る。遺骨は不明。長束小の校庭で、せん光を見た小学6年の妹信子は「母が持参したウナギを焼いて前の晩、一緒に食べました。姉は長束から元気いっぱいに上の姉愛子の母校でもある市女に通っていました。私も翌年に入学し、同窓生の一人として毎年の慰霊祭をお手伝いさせていただいています」▼母
キクヨ(41)は河原町の自宅で被爆し、9月7日死去。広島工専1年の兄謙二(17)は自宅の下敷きとなり6日死去。姉愛子(19)は動員されていた広瀬町のポンプ会社で被爆し、9月1日死去。
山本 冨貴惠(13)
広島市江波町▼江波小▼8月6日▼爆心3・5キロの自宅で被爆した母キヌヨと、3月に広島二中を卒業した兄一將が7日早朝、ろこぎの船で向かい、作業現場跡の防火水槽で遺体を見つける。兄は「当日は江波の夏祭りだったので作業なんかさぼれと言うと、妹はなぜか『今日は早く帰れるから』と言って出ました。畳を4枚並べたくらいの防火水槽に、先生と生徒数人が折り重なっており、妹を引き上げようとすると、皮膚が手の中でずるずると滑って手に収まらず、顔は熱線を浴びた横半分が焼けて黒ずんでいました」。
山田 幸子(12)
広島市大手町3丁目。母や弟と疎開していた佐伯郡平良村(廿日
市市)から通っていた▼袋町小▼8月6日▼遺骨は不明。5月に賀茂郡(豊田郡)川尻町に疎開した姉石田政子は「3歳の長男を背負って8日、広島に出て来ました。父が一人残っていた家の跡へ行き、やっと平良村を訪ねるとだれもいません。ああ、やっぱりだめだったのだなぁと思いました」▼文具卸の父幸之信(56)は自宅跡
で遺骨が見つかる。母みつ(45)は疎開先から自宅に向かう途中に被爆したとみられ、遺骨は不明。山陽中の兄満之男は建物疎開作業中に下敷きとなり、50年7月3日、18歳で死去。
【詳細不明】
伊藤 照子
菅野 郁子
中村 文子
平本美智江
吉田 品子
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