砂古 国夫(37)
広島市南観音町▼地理・歴史▼8月6日▼安佐郡緑井村に一人娘と疎開していた妻よしのが、7日から元安川西側や市内の救護所を捜し歩くが、遺骨は不明。小学6年だった長女啓子は「当時の多くの人と同じく『神風が吹いて日本が勝つ』などと熱っぽく語っていました。教え子の皆さんにも動員作業はお国のためと励ましていたと思います。疎開をする私に『病気をするな、元気でいろ』と何度も言い、7月末にカボチャをリュックサックに背負ってきた父と会ったのが最後となりました」。
繁森 止一(しいち)(51)
広島市翠町(南区)▼国語▼8月6日▼教頭として生徒らを引率し、遺骨は不明。市女専攻科をその年に卒業し、双三郡の三良坂小で教えていた二女昭子は「8日に戻り、半壊した自宅で母アサの無事を確認した後、廃虚を歩いて学校に向かいました。本館の前に先生らが集まり、テントを建て対策本部をつくっていました。お寺の土塀の下から見つかったという、父がいつも国防色のかばんに入れていた保険証書が白い布に包んであり、似島に収容されたとの情報を聞きました。10日、浴衣と家の鶏が産んだ卵を携えて似島へ向かいましたが、結局見つかりませんでした。父は、作業現場から県学務課に向かった宮川校長に『先生もお体が丈夫ではないからご用心してください』と、まるで最後の別れであるかのように話したと聞きました」。
早志 裕子(22)
広島市鷹匠町▼体操▼8月6日▼忠海高女(現・忠海高)から4月に転勤していた。豊田郡久芳村(賀茂郡福富町)に疎開していた母栄子らが向かうが、遺骨は不明。広島師範付属小教諭で比婆郡敷信村(庄原市)への集団疎開に付き添っていた妹武子は「母が翌年の慰霊祭で、『私は市女の早志です』と電車の中で言ったという重傷の姉を見た方に会いました。どこかの島へ運ばれ『生徒は大丈夫でしょうか』と尋ねていたとの話も聞きます。しばらくは生きていたのだと思います」▼薬品会社勤務の父哲雄(55)は自宅で爆死。同居していた父の妹の子で1年3組の松岡正子(12)は建物疎開作業中に被爆し、遺骨は不明。
溝上 昇(38)
広島市平野町(中区)▼書道▼8月6日▼御調郡市村(御調町)に疎開していた妻静子が向かうが、遺骨は不明。43年、岡山市立商業学校から市女に移っていた。広島二中から5月に尾道中(現・尾道北高)へ転校した1年の長男泰は「原爆の直前に届いた父の手紙に『生徒を連れて建物疎開作業に出る。よく勉強するように』と、顧みれば別れのようなことが書いてありました。臨終に立ち会えず今も死んだ気がしません」。御調町の実家からは50回忌の94年、被爆時2年生だった生徒33人の書き初めが見つかり、遺族らに返却された。
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《記事の読み方》死没者の氏名(満年齢)▼原爆が投下された1945年8月6日の住所▼出身小学校(当時は国民学校)、教員は担当科目▼遺族が確認、または判断する死没日▼被爆死状況および家族らの捜索状況▼45年末までに原爆で亡くなった家族=いずれも肉親遺族の証言と提供の記録、資料資料に基づく。年数は西暦(1900年の下2ケタ)。(敬称略)
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八林(やつばやし) 悟(37)
高田郡向原町▼英語▼8月6日▼5日晩が当直に当たり翌朝、学校から作業現場に向かう。遺骨は不明。83歳になる妻玉子は「年老いた母と7つと4つの子を抱えた私の代わりに近所の人が捜しに行ってくださいました。学校から後日、薬包に包んだ分骨をいただきました。『英語は敵国語だからと禁ずるのは考えが狭い』と憤慨しておりました。広島高師を出て宮崎県で教えていましたが、私のわがままで広島に戻り、思えば申し訳ないことをしました」。
横山 榮(39)
広島市上流川町(中区鉄砲町)▼国語▼8月6日▼動員先の三菱重工業広島機械製作所で被爆した広島二中4年の長男潤吉らが捜すが、遺骨は不明。山口県熊毛郡平生村(平生町)の叔父宅に3歳の弟と疎開していた小学1年だった二男吉は「かすかに残る父の記憶は、蔵書に囲まれた自宅2階の父の書斎で幼かった私が戦闘機や軍艦の絵を描いていたことです。兄弟3人の親代わりとなった叔母が営んでいた酒屋を継ぎ、毎年8月6日は店を閉めた夜9時すぎから、姉の名前も刻まれる市女慰霊碑と原爆慰霊碑を妻と息子2人の家族4人で参っています」▼元船越小教諭の母清子(41)は爆心1キロの自宅で被爆し、家族の避難先にしていた泉邸(縮景園)で長男と落ち合い、子どもたちの疎開先で9月5日死去。市女3年の長女榮子(15)は自宅の下敷きとなり6日死去。
【詳細不明】
重松 善一
三好カズヱ
森 政夫
渡部ツユ子
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