中国新聞社
2000/6/23

ヒロシマの記録-遺影は語る
市女1年‐6組


死没者名簿‐6組

名前  石橋 泰子(13)
 広島市西引御堂町広瀬小8月6日家族8人のうち両親をはじめ5人が死亡し、遺骨は不明。安佐郡祇園町の三菱重工業第20製作所で宿直明けの勤務に就いていた兄清は「私は避難してきた母と姉をみとり、南観音町の三菱広島機械製作所に動員されていたもう一人の姉は自宅で被爆した弟に付き添っていました」鉄工所経営の父繁太郎(50)は爆心800メートルの自宅で爆死。母イマヨ(44)は倒壊した自宅からはい出し、祇園町の親類宅で8日死去。夫の応召で実家にいた姉木村徳子(25)は収容された第20製作所の救護所で14日死去。徳子の長男裕美(1つ)は6日、イマヨの実家があった安芸郡船越町(安芸区)に運ばれる途中に死去。

名前  石岡 純子(すみこ)(13)
 広島市猫屋町(中区)光道小8月6日旅館経営の父通人が6日、実家の安佐郡日浦村(安佐北区)から自転車で向かう。遺骨は不明。前日に疎開先の日浦村に戻った小学6年の弟博は「自宅には母や姉2人が残っていました。父は市内電車道に沿って午後2時ごろには猫屋町に入り、近くで唯一崩れずに焼け残っていた光道小(注・鉄筋3階建て)を捜し作業現場へ向かったそうです。母や上の姉の死を確かめた後も、日浦村と市内を毎日往復していました。父の顔つきから、純子姉さんも駄目だったんだと受け止めました」母トシヨ(41)と姉照子(19)は、爆心600メートルの自宅帳場跡で遺骨を確認。

名前  出淵(いずぶち) 冨美子(13)
 広島市広瀬北町広瀬小8月6日古着商の父平四郎が近所の建物疎開作業中に被爆したのを押して向かうが、遺骨は不明。母シゲ子と前日から泊まりがけで呉市の親類宅を訪ねていた姉薫は「4月に91歳で逝った母は当時ふっていることが多く、長女の私も女子てい身隊で安芸郡奥海田村(海田町)の旭兵器製作所の工場に出ていたので、妹が家族8人の朝晩の食事を支度していました。母が学校からかすりで作った肩掛けかばん=写真=や、防空ずきんを受け取りました」軍需工場勤務の兄順三(15)は自宅で被爆し、安芸郡瀬野村(安芸区)の親族宅で24日死去。

名前  岩本 節子(12)
 広島市油屋町(中区猫屋町)光道小8月6日母と前夜泊まった佐伯郡八幡村(佐伯区)の親族宅を朝早く出て、作業に向かう。三菱重工業広島機械製作所に動員され、当日は佐伯郡平良村(廿日市市)にいた市立中4年の兄博司は「学友と歩いて油屋町近くまで入り、弟を背負い逃げてきた父とその夜は廿日市で過ごしました。翌日、叔父たちと再び向かい、自宅跡で母や姉のなきがらを見つけ、9日まで歩き回りましたが、父と弟の看護があり引き揚げました。後日、どれでも選んでくださいと学校で分骨を受け取りましたが、もっとかわいがってやれば…。明るくからっとした妹でした」市内から宮島街道を経て佐伯郡水内村(湯来町)までの路線バス会社を営んでいた父又一(50)は自宅で被爆し、詔勅を聞いた15日、水内村で死去。母ミヤコ(40)は自宅で爆死。実践高女教諭の姉澄子(19)は足をけがして自宅にいて爆死。父が助け出した弟隆義(1つ)は13日、水内村で死去。

 沖田 宏子(13)
 広島市錦町(中区広瀬町)広瀬小8月6日遺骨は不明。3月に市女を卒業し、大東亜食糧興業に動員されていた姉和子の夫悦二は「18年前に他界した妻は、両親や妹を奪った原爆のことは話しませんでした」鉄工所を営んでいた父正一(44)は基町にあった西部第二部隊に召集となり、遺骨は不明。母要(37)は小網町一帯の建物疎開作業に向かい、遺骨は不明。祖父恒吉(77)は自宅の下敷きとなった後、佐伯郡五日市町楽々園の別宅で9月1日死去。

名前  沖本 玲子(12)
 広島市天満町(西区)天満小8月6日母律代が7日から捜すが、遺骨は不明。帽子製造の父喜夫らと爆心1・2キロの自宅で下敷きとなった市女3年の姉純子は「前夜、空襲警報が続いたので妹と弟の量と3人で南三篠町へいったん避難しました。左足が不自由な私を気遣い、妹は『私が量ちゃんをおぶるから、非常袋をお願いね』と言い、夜道の途中に『動員作業は暑い中、皆が一列に並び、かわらを5枚くらいずつ手渡して片付けるので大変』と話しました。日本の勝利を疑わず、妹と町内会の竹やり訓練に出たり、従軍看護婦になって頑張ろうと語り合ったりしました。戦争さえなければ。なぜあの子が死ななくてはならなかったのか、しかし国に殉じたと思ってやらなければ浮かばれない。いまだに割り切れない思いです」弟量(3つ)は自宅で爆死。

名前  大松 喜美子(13)
 広島市中広町天満小8月6日原爆投下の目標地点になった相生橋の西詰めで営んでいた履物工場から戻り、自宅で水浴び中に被爆した父又一と、母ヨシノが捜すが、遺骨は不明。町内の分散教室にいた小学2年の弟正明は「父はガラス片が体中に突き刺さり右目の視力も失い、母は全身やけどを負った妹に付きっきりで、十分に姉を捜せなかったようです。母は、姉と妹の声が聞きたくなると、己斐の拝み屋さんのところへよく通っていました」妹久子(4つ)は自宅で被爆し、27日死去。

 河野 由美子(13)
 広島市上天満町(西区)天満小8月6日遺骨は不明。92歳になる母ヨシコに代わり、広島商業4年で動員先の日本製鋼所から夜勤明けで戻り被爆した兄実は「自宅にいた母は重傷を負い、家は約1時間後に焼けました。親族の建物疎開作業の手伝いに出て千田町で被爆した父正明が連日捜しましたが、どうにもなりませんでした」。

名前  香川 佳子(よしこ)(12)
 広島市天満町光道小8月6日遺骨は不明。爆心1・2キロの自宅を出ようとして全身やけどを負った海産物商の父福三郎に代わり、同業者で4組の山本皓子の父栄吉らが捜し、作業現場跡で名前入りの防空ずきんと弁当箱の入ったかばんを見つける。動員先の工場が電休日となり、自宅で下敷きとなった市女3年の姉治子は「妹とは年回りで言えば一つしか違わず、友達のような関係でした。あの朝は、家族4人そろって食事をとり、いつもは元気良く家を飛び出していくのが私に『治ちゃん、今日は行きたくないわ』と言いました。今も頭から離れない最後の言葉です」父福三郎(49)は倒壊した家からはい出し、二女治子とたどり着いた古田町高須の知人宅で20日死去。母タマヨ(42)は自宅で爆死。

名前  梶山 博子(12)
 広島市堺町3丁目(中区堺町2丁目)の自宅が建物疎開となり、猫屋町に移っていた天満小8月6日胃を患い母サツ子や弟の4人と佐伯郡浅原村(佐伯町)に疎開していた広島二中3年の兄良樹らが向かうが、遺骨は不明。88歳になる母に代わり、兄は「私たちは妹が市女に入学する直前の3月に疎開しました。母は最期すらみてやれず、ふびんなことをしたと言います。妹が小学校6年生の時に新聞記事を切り抜いてはノートに張り、表紙に時局日誌と書いたものを仏壇に納めています」ガラス店経営の父良雄(37)は防衛召集され、爆心1・4キロの広島文理科大(現・広島大)を仮兵舎としていた第205特設警備工兵隊にいて被爆し、運ばれた浅原村で26日死去。祖母八重子(58)は爆心700メートルの自宅で爆死。

名前  川本 智津子(12)
 広島市鍛冶屋町(中区本川町1丁目)の自宅が建物疎開となり左官町(本川町2丁目)に移っていた本川小8月6日消防署員として爆心2・3キロの広島地方専売局(現・日本たばこ産業)近くの望楼で警戒中に被爆した父冨作が捜すが、遺骨は不明。三菱重工業広島造船所に動員されていた市立造船工業学校2年の兄勝之は「近所に住む一級上の三田尾民子さん(注・2年3組、被爆死)と連れ立って学校に行けるのがうれしそうでした」旅館業の母キヨ子(38)は爆心500メートルの自宅で爆死。
    ◇  ◇
 山県郡戸河内町に疎開していた祖母や3人の妹にあて、7月に出した手紙の一部から。
 この頃(ころ)とても空襲がはげしく昨夜も空襲になりましたが広島へは來(き)ませんでした。私も夏休みがあればそちらへ行きたいと思つて居(お)りますのよ。
 今日市女のプール掃除がございまして二年生は明日から水泳されますのよ。まことにうらやましく思ひます。冨美江ちゃん(注・小学5年の妹)達(たち)は泳がれますか。許可がなくては泳いではいけませんよ。お祖母様はこしはもうなほつたでせうか。心配して居ります。

名前  菊崎 富江(12)
 広島市福島町(西区)天満小8月6日母シオが四女のために自らの浴衣で作った下着のうち焼け残っていたゴムひもと、木にかかっていた名前入りの防空ずきんを見つけるが、遺骨は不明。自宅で被爆し、一緒に捜した兄貞は「ひもは5センチくらいありました。金庫に入れておきましたが、思い出すと悲しくなるので焼却しました。胸を患って入院していた兄の妻を進んで毎日見舞うなど、よくできた子でした」。

名前  小杉 和子(12)
 広島市広瀬元町(中区)広瀬小8月6日遺骨は不明。小学3年で母の実家の佐伯郡大竹町に縁故疎開していた弟茂生は「米穀店を営んでいた父謙一は応召で福岡県におり、自宅にいた母ら3人は爆死したために捜せませんでした。姉が小学生のころ、広島二中の50メートルプールであった水泳大会に出たので応援に行ったのを覚えています。母シカ代(36)と妹悦子(4つ)は爆心1キロの自宅跡で遺骨が見つかる。祖父留吉(75)は自宅で被爆したとみられるが、遺骨は不明。

名前  小松 晶子(12)
 広島市堺町4丁目の自宅が建物疎開となり、舟入本町(中区)に移っていた光道小8月6日養母タカヲと母高吉光子、姉喜美子が捜すが、遺骨は不明。姉は「実家が食料雑貨店で忙しく、7歳下の妹は子どものいなかった伯父夫婦の養女になっていました。小学5年のころ元宇品町の実家に帰って来て『お姉ちゃん、私、李香蘭に似ていると言われたけれど、どんな人?』と尋ねたことがあります。映画や歌の大スターよと教えても首をかしげていました。娯楽すら知らず死んでしまいました」。銘碑に刻まれる「小松昌子」は誤記祖母ヱイ(71)は爆心1・5キロの舟入本町の自宅でガラス片が首に突き刺さり、安佐郡祇園町の親類宅で11日死去。

名前  佐伯 尚子(13)
 広島市左官町(中区十日市町1丁目)光道小己斐町にいた姉の末田喜美子の夫隆が捜すが、遺骨は不明。前年に結婚した姉は「私から末っ子の尚子まで姉妹5人とも市女に通いました。それが、妹たちはみな両親とともに死んでしまいました。原爆で死んだ7人の家族のものだと確信できる遺骨や遺品はなく、本当はどこで、どんな最期を迎えたのか…。今もってもどかしさが消えません」爆心500メートルの自宅で紳士服店を営む父篤一(50)、母政子(46)、爆心260メートルの住友海上火災保険広島営業所勤務の姉智惠子(20)、女子てい身隊として爆心4・6キロの陸軍船舶司令部に徴用されていた姉昭子(18)、1・3キロの大東亜食糧興業に動員されていた市女3年の姉幸子(14)、祖母ヨ子(71)の6人も遺骨は不明。

名前  佐々木 頼子(12)
 広島市猫屋町本川小8月6日安佐郡祇園町の三菱重工業第20製作所に自転車で出勤途中の父逸男は上半身に大やけどを負ったため、自宅の下敷きとなった母シクノが4歳の三女を背負って捜すが、遺骨は不明。戦後生まれの弟文治は「母は教育熱心で、姉たちは小学校時代からずっと皆勤賞を受け、そろって将来は先生になりたいと言っていたそうです。原爆で死ぬのなら厳しくするんじゃなかった、かわいそうなことをした、と母はよくこぼしていました。両親は8月6日は、必ず市女と山中の慰霊碑や護国神社に参っていました」山中高女(現・広島大付属福山高)3年の姉美智子(15)は天満町の三宅製針に動員され、遺骨は不明。

名前  坂本 孝子(12)
 広島市広瀬元町広瀬小8月6日遺骨は不明。小学4年で双三郡酒河村(三次市)に集団疎開していた弟照明は「家族の33回忌に墓をつくり替えるために開けると、父が持ち帰ったと聞いた姉のアルミ製の弁当箱があり、黒く焼けた砂が一握り入っていました。両親の言いつけを守り、空襲警報のサイレンが鳴ると私たち弟3人に防空ずきんをかぶらせ、手を引いて防空ごうまで連れて行ってくれました。優しい姉でした」建築請負業の父一六(48)は爆心1キロの自宅で被爆し、妻の遺骨や二女孝子の弁当箱を携えて、幼子を疎開させていた高田郡小田村(甲田町)に向かい、31日死去。母キクヨ(39)は町内の避難先になっていた安佐郡古市町の救護所で23日死去。結婚を控えていた姉ユミ子(19)は自力でたどり着いた小田村で9月2日死去。弟忠義(2つ)は自宅近くの天満川で6日死去。

名前  島田 八重子(12)
 広島市福島町天満小8月6日遺骨は不明。養父の高橋直行は全身やけどを負って大野陸軍病院に収容されていた。76年に死去した直行をみとったおいの妻マサエは「伯父さんは死ぬまで『かわいそうなことをした』と言っては涙ぐんでいました。実の両親が早く亡くなり、子どものいなかった伯父さんがみておりました。私の妹の菊﨑智子(2年1組)も一緒の作業現場に出て、最期は同じように分かりません」。

名前  鹿林 俊枝(12)
 広島市錦町光道小8月6日遺骨は不明。三菱重工業広島造船所に動員されていた市立造船工業学校3年の兄稔は「母と妹の3人暮らしでした。被爆後、造船所の引き船で宮島へ渡って一晩過ごし翌7日、元安川西側を捜しました。生徒はなぎ倒され、焼け焦げて顔は識別できる状態ではありません。川面は水面が見えないほど死体が黒々と浮いていました」母ミサヲ(46)は、町内から国民義勇隊として横堀町(中区榎町・西十日市町)の建物疎開作業に動員され、遺骨不明。

名前  高藤 公代(12)
 広島市西大工町(中区榎町)本川小8月6日遺骨は不明。両親は爆心800メートルの陶器販売店の自宅で下敷きとなった。父静一の実家があった賀茂郡西条町(東広島市)にいた、おいの妻冬子は「叔父の静一さんは自宅からはい出して捜したそうですが、見つからないため作業現場跡にあった公代さんの水筒を学校から受け取り、西条の墓に納めました。叔父夫婦にはただ一人の子どもでした」母真(51)の遺骨も不明。

名前  武内 多満惠(13)
 広島市天満町天満小8月6日宮司の父勇が作業に出ていた軍需工場で重傷を負ったため、自宅で被爆し1歳の弟を連れて逃げた母トモが7日市内に戻り、元安川の水辺で遺体を確認。集団疎開していた小学3年の妹禎子は「母は、引率の先生と思われる男性の腕の中であお向けに死んでいた姉を見つけました。一人では運ぶことができず、胸に縫い付けていた名札をはぎ取り、近くに転がっていたトタンを遺体にかぶせて別れを告げたと話していました。姉は『師範学校に進み先生になりたい』と、灯火管制のため黒い布をかぶせた電球の下でも勉強していたそうです」祖母サワ(80)は自宅の下敷きとなり死去。

《記事の読み方》死没者の氏名(満年齢)原爆が投下された1945年8月6日の住所出身小学校(当時は国民学校)、教員は担当科目遺族が確認、または判断する死没日被爆死状況および家族らの捜索状況45年末までに原爆で亡くなった家族=いずれも肉親遺族の証言と提供の記録、資料資料に基づく。年数は西暦(1900年の下2ケタ)。(敬称略)

名前  田村 信子(12)
 広島市南三篠町(西区小河内町1丁目)三篠小爆心1・7キロの自宅そばの畑で農作業中、両腕に大やけどを負った父平一が捜すが、遺骨は不明。自宅にいた小学2年の弟昭平は「まじめに通学していた。近くの福島川(現在の太田川放水路)へよく泳ぎに行っていた。親思いの姉だったと記憶しています。墓に姉2人の遺骨すらないのは寂しく、夏に公開される原爆供養塔の納骨名簿は毎年必ず見に行きます」(注・肖像画)安芸高女1年の双子の姉秀子(12)は、小網町一帯の建物疎開作業に動員され、遺骨は不明。

名前  對馬 幸子(13)
 広島市天満町の自宅が建物疎開となり西観音町1丁目に移っていた天満小8月6日大野小教諭の父昇が6日午後、勤務先の佐伯郡大野村から向かうが、遺骨は不明。大野小に通っていた5年の妹良子は「姉は私たちが出た後、玄関から『行ってきます』と元気な声を上げて出たそうです。母キクエも三篠小で教えており、家の奥で身支度をしていました。15年前に他界した母は『あれが最後になるのなら見送りたかった、ひと目会いたかった』と思い出しては話していました」祖母イシノ(70)は爆心1キロの市役所に出かけ、遺骨は不明。

名前  辻山 冨美子(12)
 広島市空鞘町(中区十日市町2丁目)本川小8月6日動員先の工場が電休日で友達と海水浴に向かう途中、己斐駅で被爆した市女3年の姉喜代子が7日から叔父と一緒に捜すが、遺骨は不明。姉は「作業現場跡一帯には、粘土の塊のような死体が無数にあり、顔をのぞき込んでも見分けがつきませんでした。酒卸の父を前の年に病気で失い、母と妹の3人家族でした。母の遺骨もなく、無念さは消えません。引き取り手のない原爆供養塔の納骨名簿が公開される夏には、必ず確かめに行っています」母アヤメ(35)は自宅で被爆したとみられるが、遺骨は不明。

名前  土屋 貞子(13)
 広島市鍛冶屋町本川小8月6日防衛召集で被爆した父信夫と安芸郡昭和村(呉市)の実家にいた母タマヨに代わり、叔父卓爾らが捜すが、遺骨は不明。卓爾の妻武子は「私たち家族4人は義兄宅の2階を間借りして一緒に住んでいました。市女の受験を控えた貞子が夜遅くまで机に向かっているのを障子越しに気づき、寝るよう促しても『うん、もうちょっと』と勉強していました。合格した時は本当に皆で喜び、制服を着た貞子を囲んで写真を撮ったりもしました。それらはすべて焼けてしまいました」工業薬品販売の父信夫(44)は千田町方面で被爆後、たどり着いた西観音町の妹宅で9月10日死去。祖母サメ(62)は爆心400メートルの自宅で爆死。「信夫さんをみとった後、義姉と家の跡を見に行くと米兵がつぶれた米がまを写真に撮っており、悔しくてその場で2人泣きました」

名前  寺本 幸子(13)
 広島市横堀町(中区榎町)天満小9月4日作業現場に向かう途中で被爆し、母や伯母たちと仮住まいしていた中広町で9月4日午前8時ごろ死去。いとこの漁田和子は「幸ちゃんは8月の終わりごろから急に髪の毛が抜け、鼻血が止まらなくなりました。最期は、よく歌っていた『お使いは自転車に乗って』を口ずさみ、にっこり笑うと白い歯が血で真っ赤に染まりました。その1時間後には私の母霞も逝きました」。市女銘碑に刻まれる1年生277人は、同じ日に死去していたのが今回分かった2組の山根弘子(13)を含め、全員が9月4日までに亡くなったとみられる履物製造の父亀太郎(50)は爆心900メートルの自宅で爆死。母松江(39)は自宅の下敷きとなり、長女幸子をみとった後の10月9日死去。弟隆(3つ)は父と爆死。

名前  銅金 冨美子(13)
 広島市鷹匠町(中区本川町2丁目)本川小8月6日遺骨は不明。鷹匠町から安佐郡安村へ長女を連れて疎開していた義姉信子は「その年の6月ごろ、義母がアユを買ってきて大豆入りのご飯と出すと、『私がお嫁に行ったらイワシを持ってきてね』と言った冨美ちゃんの言葉が忘れられません。夫は翌年に台湾から復員して初めて両親や弟、冨美ちゃんの死を知りました」製針業の父卯吉(52)と母セイ(50)は自宅で爆死したとみられ、信子が母の金歯を納める。修道中3年の兄輝雄(16)は遺骨不明。学校史によると、合同製鋼所(西区)への動員生徒33人のうち、銅金を含む3人が「罹災(りさい)による死亡」とある。

名前  藤﨑 幸惠(13)
 広島市銀山町(中区)から中広町の母の実家に移っていた幟町小8月6日遺骨は不明。自宅の洗面所で下敷きになった中国憲兵隊司令部勤務の兄肇は「妹とは2つ違いでしたが、私は空襲警報が鳴れば真夜中でも八丁堀の司令部へ出て行かなくてはならず、ゆっくり話をした思い出がないのは残念です」仏壇店を営んでいた父一郎(41)と母アサ子(36)は自宅跡で遺骨が見つかる。

名前  前田 恒子(13)
 広島市中広町天満小8月6日遺骨は不明。自宅で被爆した材木商の父勝恵と兄慎之輔が7日、作業現場跡に入る。兄は「元安川の辺りは女学生の黒焦げの死体が続き、本川の橋詰めには馬が狂ったようにうごめいていました。若い声が聞こえ、生きていると思われたのは1人か、2人だったでしょうか。だれがだれと見分けがつく状態ではありませんでした。恒子から高田郡向原町に疎開していた母フヨにあてた手紙の切れ端には、防空用の服をつくるので布を送ってほしいとあります」。

名前  増本 節子(12)
 広島市榎町の自宅が建物疎開になり、観音本町に移っていた天満小8月6日中広町に借りていた畑でカボチャを栽培中に被爆した父栄太郎と、佐伯郡河内村に疎開していた母初野が7日から捜すが、遺骨は不明。爆心1・1キロの広瀬小で下敷きとなった教諭の姉綾子は「双三郡板木村(三和町)の学童疎開先から戻って来る先生の代わりに翌日行くことになっていました。それで6日の朝、日傘と着替えを母のもとから取ってくるよう妹に頼みましたが、『休むわけにはいかない』と家を出ました。父と母は毎日のように歩き回り、私も元安川河岸を捜しました。あの時、河内村に行かせておけば…」。

名前  松島 サダ子(13)
 広島市北榎町(中区西十日市町)天満小8月6日遺骨は不明。40年に現役入隊し、翌年から中国湖北省にいた兄の小林隆雄は「初年兵を受領容迎のため昭和18年末に帰郷し、半月ほど休暇をもらいました。家族で墓参し、妹が『お兄さん、体に気をつけて』と言って別れたのが最後になりました。復員すると家族も住む家も失っており、せめて妹だけでも疎開して助かっていればどんなにか…。80歳になっても、そうした思いは消えません」精肉店を営む父謙作(53)は自宅近くで被爆し、安佐郡祇園町長束向地(西区大芝3丁目)の親族宅で21日死去。隆雄が召集されたため、実家の姓に戻っていた母小林コヨシ(46)も23日死去。

名前  松田 弘子(12)
 広島市天満町の自宅が建物疎開となり、三滝町に移っていた天満小8月6日県警察部宇品署員の父謙造が救護所となった管内の大河小(南区)で死体検分に就いたため、母糸恵が捜すが、遺骨は不明。高田郡三田村に縁故疎開していた小学4年の弟修治は「私が疎開先で寂しがっていることを知った姉は『早く帰っておいで。今度会える日が楽しみです』と手紙をよこしました。1年上だった姉も同じ作業現場に出ていました。松田弘子、美智江と書かれ、骨のかけらが入った2通の封筒が学校から届いたのを覚えています」市女2年4組の姉美智江(14)の遺骨も不明。

名前  三好 賀代子(12)
 広島市寺町(中区)陸軍偕行社付属済美小8月6日遺骨は不明。賀茂郡東志和村(東広島市)に縁故疎開していた小学3年の弟邦彦は「父誠一は召集され、自宅にいた母千代子をはじめ4人が生き埋めになりました。母は弟の泣き声がするので必死にはい出しましたが、3人が焼死し、だれも姉を捜すことはできませんでした。当日履いていたと思われる長姉の革靴が後日、東志和村の伯母宅で不思議なことに見つかりました。母の願いが届いたのでしょうか…。今も私が持っています」陶器卸の祖父健次郎(70)と祖母ヱイ(66)、弟の健彦(3つ)はいずれも6日死去。

名前  水田 スミエ(12)
 広島市塚本町(中区堺町1丁目)本川小8月6日双三郡三次町(三次市)の長女家族を訪ねていた父六三郎が7日、長女の夫が都合したトラックに乗って戻り捜すが、遺骨は不明。台湾から翌46年に復員した兄兼三郎は「姉が嫁ぎ、私たち兄2人が兵隊に出た後は、両親との3人暮らしでした。末っ子のまだ甘えん坊で、母の背におんぶしてもらいたがりました。ただ1枚残る写真は、浄瑠璃が好きな父に勧められ日本舞踊を習っていたころのものです」母フクノ(48)は爆心500メートルの眼鏡貴金属店を営む自宅で被爆したとみられ、遺骨不明。

名前  宮原 順子(よりこ)(12)
 広島市東観音町1丁目光道小乾物商の父常吉が捜すが、遺骨は不明。いとこで広島航空に動員されていた県立第一高女4年の熊平みやこは「母親が幼いころ他界し、祖母と3人で暮らしていました。夏服がいると前の晩に型紙を持って訪ねてきたので、着物で作ってやりました。たった一人の兄もフィリピンで戦死していたのが戦後に分かり、祖母が2人の死を知らずに逝ったのだけがせめてもの慰めと母も申していました」祖母サタ(65)は自宅で爆死。

名前  八島 喜佐子(13)
 広島市堺町3丁目の自宅が建物疎開となり、近くの油屋町に移っていた光道小8月13日遺骨は不明。油商の父玄蔵は3年前から応召にあり、母豊子は爆死した。朝鮮半島から復員した玄蔵と戦後に結婚したタマコは「14年前に他界した夫は、自宅と店は残がいとなった蔵跡がぽつんと建つだけで、家族の消息は全く分からなかったと言っていました」母豊子(43)は6日死去。3月に市女を卒業して県内政部会計課に勤めていた姉室子(17)は15日死去。

名前  山肩 美惠(13)
 広島市南三篠町天満小8月6日爆心1・7キロの自宅玄関前で自転車の空気を入れていてやけどをした陶器商の父健次らが似島も捜すが、遺骨は不明。三菱重工業広島機械製作所に女子てい身隊として勤め、事務所があった古田町の電停で被爆した姉フサ子は「空襲が激しくなり、妹は家から通学に近い市女を自分の考えで選び、いとこの田部須美子(注・5組)と一緒に合格したのをことのほか喜んでいました。家の地下に納めていた着物や服を火葬して、お墓に納めました」三篠小6年の弟新治(12)は通学路の安芸高女校庭に据えられていた高射砲をながめていて被爆。倒壊した家屋から下の弟を助け出したが、9月17日死去。

名前  山口 歌子(12)
 広島市西大工町本川小8月6日こんにゃく製造・卸を営む父正が捜す。9年前に死去した弟匡計の妻千鶴子は「夫と結婚する前の昭和35年ごろ、市から遺骨を受け取ったと聞いたことがあります。夫は原爆の時は10歳で母方の祖母と疎開し、家に一人で戻る途中に被爆したそうです。ただ、原爆の話はあまりすることはなく、心の中で引きずるものがあったと思います。聞くとつらいものがありました」自宅は爆心800メートルで、母浅子(37)は運ばれた安佐郡久地村(安佐北区)で19日死去。父正(49)は被爆3年後の48年9月13日死去。市内の疎開先にいた祖父豊次郎(72)は46年2月21日死去。祖母キチ(70)はまきを取りに帰宅し、爆死。

名前  山田 邦子(13)
 広島市鷹匠町の自宅が5月に建物疎開となり、白島九軒町(中区)に移っていた本川小8月6日母ヒサコと、警備召集でいた山口県から戻った叔父正一が捜すが、遺骨は不明。双三郡板木村に縁故疎開していた小学4年の弟幹雄は「父が病死した後は、母が洋服仕立てを引き継ぎ、姉2人と私を育てていました。姉たちと空襲警報で一緒に家の地下防空ごうに入ったのを記憶しています。広島を離れて40年余がたち、市女慰霊碑を一度訪ねて姉の名前を確かめてみたいと思います」市立第二高女4年の姉幸枝(16)は、動員先の日本製鋼所西蟹屋工場が電休日のため自宅から外出し、遺骨は不明。

名前  山本 久子(13)
 広島市榎町光道小8月6日動員されていた工場が電休日で、爆心1・8キロの観音本町の自宅で被爆した市女3年の姉西村糸子が10日から捜すが、遺骨は不明。「妹は子どものいない伯父夫婦の養女になっていました。作業現場南の水主町の自宅で下敷きになった私の同級生が6日、お母さんと元安川へ逃げた際に全身やけどで雁木にうずくまっていた妹を見かけ、声をかけると、『私は山本久子です。一緒に連れて逃げてください』と答えたそうです。同級生を捜しに来た医師のお父さんがカンフル剤を注射し、しばらくして妹はいなくなったそうです。水を求めて川へ下り、流されたのではないかと思います」養母綾子(37)はかまぼこ・ちくわ製造卸の自宅で被爆し、たどり着いた己斐町で8日死去。

名前  綿岡 香代子(12)
 広島市西九軒町(中区十日市町1丁目)光道小8月6日遺骨は不明。爆心1・3キロの大東亜食糧興業に動員され被爆した、市女専攻科の姉智津子は「気がつくと屋根が足元にあった事務所から逃げるのが精いっぱいでした。妹を捜してやれず、かわいそうなことをしました。作業現場の辺りが平和記念公園になってからも長い間近寄る気になれず、付近に用があるときは遠回りをしていました。両親や幼い妹たちも原爆で死んでしまい、家族6人が私一人だけになりましたので」日本茶販売の父重美(45)と母光子(38)、妹裕乃(6つ)、妹公乃(3つ)は、全員が爆心700メートルの自宅で爆死。

 【詳細不明】
 上野真理子
 大矢 幸子
 斉藤 裕子
 菅  照子
 的場 豊美
 三浦万里子
 渡辺三代子
(注・本川小出身。同級生らによると「渡部美代子」が正しい)


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