中国新聞社
2000/6/23

ヒロシマの記録-遺影は語る
市女1年‐5組


死没者名簿‐5組

名前  天﨑 泰子(13)
 広島市己斐町(西区)広瀬小8月6日宮島沖で見つかった遺体をだびに付し、遺骨を母久子が佐伯郡厳島町役場で受け取る。佐伯郡井口村(西区)に一部移転していた陸軍船舶司令部の衛生兵として入市した兄孟は「宮島の桟橋に妹の名前を書いた張り紙があり、それを見た近所の人が知らせてくれました。原爆投下の翌日、私は命令を受けて同僚を捜す傍ら、家族から聞いた県庁北側一帯の作業現場跡を回りました。2つ並んでいた防空ごうをのぞくと二、三十人の女生徒がみな顔をこちらに向けて死んでおり、思わず全身が震えました」父正男(57)は勤めていた爆心1・2キロの広瀬北町(中区)の関戸蚊帳から自力で帰宅し、9月11日死去。結核性関節炎を患っていた兄稔(22)は爆心300メートルの相生橋西詰めにあった三宅外科医院に向かい、遺骨は不明。

名前  荒木 セツ子(13)
 広島市中広町(西区)三篠小8月6日母サトコが7日夕、元安川土手でもんぺに縫い付けていた名札から遺体を確認。動員されていた関西工作所(中区舟入川口町)で被爆した広島一中(現・国泰寺高)3年の兄幹夫は「妹は小学生のころから親族が集まった席で『しっかり勉強して小学校の先生になりたい』と話していました。父唯一はハワイ・ホノルルで日本人社交クラブの支配人をしており、日米開戦で米国本土のニューメキシコ州のサンタフェ抑留所に送られ、45年末に帰国して初めて日本の敗戦と、妹の原爆死を知りました」陸軍士官学校を7月に卒業した兄貞(22)は西練兵場(中区基町)で被爆し、安芸郡戸坂村(東区)の救護所で7日死去。

 石川 孝子(12)
 広島市己斐中町(西区)の鉄道官舎己斐小8月6日出張先の岡山県から海田市駅まで通じていた列車で戻った広島鉄道局勤務の父猶吉が7日明け方から捜すが、遺骨は不明。己斐小で被爆し、黒い雨に打たれて帰宅した小学4年の弟通は「未明に帰って来た父は、姉がまだ帰らないことを知るとすぐさま作業現場跡に向かいました。男子中学生から、姉が軍の船で似島へ運ばれたと聞いたそうです。島でも自分の娘だけは生きていると思い、遺体は確かめず、負傷者ばかりを見て回ったと話していました。私も子を持つようになって親として当然の気持ちだと知りました」。

名前  岩佐 ヨシノ(13)
 広島市己斐中町己斐小8月6日自宅で洗濯中に被爆した母シゲヨが7日向かうが、遺骨は不明。89歳になる母は「3姉妹の長女でした。夫が昭和12年に戦死し、祖父母も長女の成長に期待しており、市女に入学できたことを家族一同大いに喜びました。学校では勉強より作業が多かったように思います。暑い朝に送り出した後ろ姿を思い出すと、わずか13歳までしかみてやれず申し訳ない気持ちがします。遺影は入学記念に撮ったものです」。

名前  泉廣(いずひろ) 孝子(13)
 広島市己斐町己斐小8月6日召集されて広島城跡の中国軍管区司令部にいた元小学校教師の父達三と、母泉が6日夜、作業現場跡で全身やけどの長女を見つけ、連れ帰る。動員先の陸軍被服支廠(しょう)で被爆し7日に帰宅した広島高師付属中3年の兄哲彦は「妹は振り絞るような声で『皆で君が代を歌ったんよ』『哲ちゃんは死んだん?』と話し、母がトマトの汁を口に浸してやると『おいしい』と言って逝ったそうです。父となきがらを己斐小へ運び、校庭に掘られていた数十もの穴の一つで焼きました。翌月には父を火葬することになり、断腸の思いです」爆心790メートルの中国軍管区司令部で被爆した父達三(41)は9月1日死去。

名前  上原 勢津子(13)
 広島市打越町(西区)三篠小8月6日爆心1・8キロの自宅で被爆した鉄工所経営の父春一郎と母ミサ子が7日、作業現場跡で遺体を確認し、その場でだびに付す。高田郡生桑村(美土里町)へ7月末に集団疎開した小学4年の弟雅郎は「澄み渡った南の空から噴煙がわき上がったのを見て、みんなで吉田町辺りに空襲があったのだろうと話していました。姉の頭上で原爆がさく裂したのが分かったのは、地元の人がぼろぼろの体で戻ってきた夕方でした。9月初めに帰宅し、お姉ちゃんは?と尋ねると父は何も言わず、家の後片付けを手伝いに来ていた叔父が、勤労奉仕に出て死んだと耳打ちしました」。

名前  小河 澄子(13)
 広島市三滝町(西区)皆実小8月7日勤め先の日産自動車三篠工場で被爆した父三郎が6日昼、竹やりを携えて向かい、元安川の岸辺で見つける。全焼した自宅跡で7日夕、死去。92歳の母愛子に代わり、母の郷里に縁故疎開していた小学6年の弟哲は「父の話では、潮が引き浅瀬になっていた川に下りて、大声で名前を叫ぶと姉が手をあげたそうです。被爆の瞬間を『袋に詰めて振り回され、放り投げられたようだった』と言い、最期は私たち家族5人の名前を呼んで息を引き取りました。父は、姉が手を上げてこたえた時、腕の皮膚が指先からぶら下がり顔形も変わっていたので本人とは信じられず、親きょうだいの名前を言わせた。振り返るたびにすまないことをしたと涙ながらに話していました」。

名前  沖廣 怜子(12)
 広島市山手町(西区)三篠小8月6日自宅近くで畑仕事中、背中に大やけどをした母サダ子に代わり、市立中(現・基町高)4年の兄卓見が捜すが、遺骨は不明。小学1年だった弟守望は「母や兄が死去し、詳しいことは分かりません。母は、元気なころは8月6日は市女慰霊碑と、比治山の多聞院にある父の名前が刻まれる郵便局慰霊碑に必ず参っていました。父と姉は誕生日と死没日が同じで、母は因縁なんかねぇと話していました」広島郵便局勤務の父憲造(37)は、爆心直下の細工町(中区大手町1丁目)の局舎に出勤し、遺骨は不明。

 奥田 美智枝(13)
 広島市楠木町3丁目(西区)大芝小8月6日自宅で蚊帳を畳んでいる時にガラス片がほおに刺さった母チヨコが捜すが、遺骨は不明。インドネシアで製紙工場の建設に携わっていた父律夫の郷里に縁故疎開していた小学3年の弟稔は「母は3人の子を抱えて手内職が忙しく、姉まで手が回らなかったそうです。本人も一人で市女を選び、合格の際も『お母ちゃん、通ったよ』とだけ言ったと聞きます。父は戦後に現地で殺され、妹は原爆の2年後に病死しました。母は日雇いでもっこを担ぎ私を育ててくれました。明治生まれの気丈さからか、ぐちは口にしませんでした」。

名前  金口 壬美(よしみ)(13)
 広島市三滝町大芝小8月6日応召中の藍(あい)染料卸の父麻次郎に代わり、母吉子が捜すが、遺骨は不明。ふたに名前を彫っていたアルミ製の弁当箱とズックの片方を、母が学校で受け取る。結婚して高松市にいた9つ違いの姉保木廣子は「航空技術少佐の夫から広島が新型爆弾でやられたと聞いて12日に戻り、妹の死を知りました。私が市女に通っていたころと違い、妹は小学校時代から『お国のため』とたたき込まれ、それを信じて死にました。今思えば国に殉じながらも、やりきれない思いが先立ちます」。

 木村 通子(13)
 広島市三滝町不明8月6日札幌鉄道局勤務の父定夫が召集され、母方の祖父がいた三滝町に移っていた。遺骨は不明。勤めていた吉島本町の倉敷航空機で被爆した叔父藤光正男は「自宅に戻ると姉とめいが戻って来ないので翌7日から県庁一帯を私の父と捜しました。防火用水には男も女も頭から突っ込んで死んでおり、せいさんそのものでした。姉とめいは原爆慰霊碑の名簿に載っているのは確認していますが、原爆で死んだと分かるのはそれだけで、情けなく腹が立ちます」母キヨ(37)は三滝町の国民義勇隊として小網町一帯の建物疎開作業に出て遺骨は不明。

名前  佐伯 豊子(12)
 広島市楠木町2丁目大芝小8月6日糖化工業合資会社を営んでいた中島新町(中区中島町)が建物疎開となり、佐伯郡五日市町に移転地を探しに行っていた父福松が戻り捜すが、遺骨は不明。三菱化成工業(現・三菱レイヨン)大竹工場に動員されていた広島工専(現・広島大)1年の兄利彦は「原爆から40年後、広島市から『佐伯悦子』とのネーム入りの服が見つかったと連絡がありました。市女3年生だった姉悦子の服を着て出たのかと思われます。工場では疎開準備を進めていた従業員約60人が死んだと聞いています」。

名前  坂本 淑子(12)
 広島市打越町天満小8月6日父亀吉と母静子が捜すが、遺骨は不明。三菱重工業広島機械製作所へ通年動員され、作業中の8月2日に頭を縫うなどのけがをして療養していた広島二中3年の兄伸夫は「妹が作業へ出掛ける前、私に『はよう治しんちゃいよ』と言ったのを鮮明に覚えています。おちゃめで活発な子でした。家も崩れ、焼けてしまったので遺品は何も残っていません。遺影は戦後、親族から譲られたもので市女入学時に撮ったと思われます」。

名前  杉田 映子(12)
 広島市中広町三篠小爆心1・5キロの自宅近くの路上で被爆した父万寿男らが捜すが、遺骨は不明。自宅で被爆し、89歳になる母利子は「あこがれの市女に合格し、制服のスカートをはいたのは入学式の時だけだったと記憶しています。あの日はもんぺにシャベルを担いで出る長女を見送りました。小学3年から乳飲み子の女の子3人を抱えていたため、帰って来ないあの子をどうすることもできず、仏壇の遺影に手を合わせるたび、すまん、すまんの言葉が出てきます」。

名前  杉山 美子(12)
 安佐郡古市町(安佐南区)嚶鳴小(現・古市小)8月6日父重雄が召集され、崇徳中3年の兄武郎が7日朝、作業現場跡に入るが、遺骨は不明。兄は「相生橋を抜けて今の平和記念公園にたどり着きました。るいるいたる死体の中、女学生らしい顔をのぞき込んだり、起こしたりしました。しかし、顔形の見分けがつかず、くすぶる地面の熱さに耐えられなくなりました。母シズエは、私の報告を口元を引き締めて聞き終えると、声を上げて泣き崩れました。私も涙が止まりませんでした」。

名前  十河(そごう) 春美(13)
 広島市中広町広瀬小8月6日遺骨は不明。爆心2・8キロの陸軍兵器補給廠から当直明けで帰る途中に被爆し、96歳になった父悦十郎に代わって、小学4年で双三郡に集団疎開していた妹幸子は「兵隊さん2人が、父にひと目会わそうと私を疎開先に迎えに来ました。それほど全身にひどいやけどをしていました。母久子と、市女を卒業した姉智恵子も看病に付きっきりで、『はーちゃん』を捜してやれず、郷里の愛媛県へ9月末に家族で戻りました。父は70歳すぎまで毎年、広島へお参りしておりました」。

名前  高橋 眞佐子(12)
 広島市水主町の自宅が建物疎開となり、安佐郡川内村(安佐南区)の伯母宅から通っていた中島小8月6日父豊次郎は応召中で、祖父が捜すが、遺骨は不明。小学4年だった妹喜子は「母キヨコがその年の1月に病死した後、父に召集がかかり、姉と私の2人が生まれ育った家は建物疎開の命令を受け、出て行かなくてはならなくなりました。つらいことに次々と見舞われたせいか、姉の死もただ受け止めるしかなかったような気がします」。

名前  田中 好江(12)
 広島市西引御堂町(中区十日市町2丁目)広瀬小8月6日市女4年の姉信子のもんぺをはいて作業現場に向かう。叔父が7日、元安川の雁木で、もんぺに縫い付けてあった名札から遺体を確認。動員先の工場が電休日だったため、弟を背負い緑井村(安佐南区)の父の実家へ行く途中に横川駅で被爆した姉は「妹はあの朝、『お姉ちゃんのを借りるからね』と言って出ました。父の実家に全身やけどで運ばれた母に続いて、妹がなきがらとなって安置されると、見てはおられずそばを離れました」日本発送電(現・中国電力)勤務の父数人(49)は爆心700メートルの自宅で爆死。母ミ子コ(37)は自宅近くの十日市電停で被爆し、9日死去。

名前  田部 須美子(12)
 広島市己斐町光道小8月6日爆心2・3キロの自宅で被爆した陶器卸の父三代太郎は足が不自由だったため、母タツが7日向かうが、遺骨は不明。南太平洋マーシャル諸島(現在は共和国)からその年10月に復員した兄壽男は「私は昭和17年1月に広島の西部第二部隊へ現役入隊し、陸軍経理学校を経て松山の歩兵第一二二連隊からその年の8月にフィリピンに派遣されました。それ以降、家族との音信は途絶え、妹が市女に入学したことすら知りませんでした。補給が途絶え乾パン一つをめぐって味方が殺し合う極限状態の戦地から戻った当時は妹の死を聞いても悲しい、寂しいといった人間らしい感情は正直わきませんでした」。

名前  土肥 千代子(12)
 広島市横川町3丁目(西区)三篠小8月6日自宅の下敷きとなった父甚九郎と母チヨノ、市女を卒業して勤めた爆心680メートルの中国配電本店で被爆した姉信子が8日夕、現在の原爆資料館南側で、もんぺに縫い付けていた名札=写真=から確認。97歳になる母に代わり、姉は「妹はあの朝『腰が痛い』と言うので、配給があった父の新品のパンツを母が余分にはかせたそうです。その妹は変わり果て眼球が飛び出していました。遺髪を父の小刀で切り、遺体はその場で火葬しました。寮に住んでいた上の妹枝美子が前日家に立ち寄り、2人で話していました。明日は死ぬとは思いもしなかったでしょうに」3月に市女を卒業し、開学した広島女高師(現・広島大)1年の姉枝美子(16)は爆心1・7キロの校舎で被爆し、遺骨は不明。初授業は8月6日に予定されていた。

《記事の読み方》死没者の氏名(満年齢)原爆が投下された1945年8月6日の住所出身小学校(当時は国民学校)、教員は担当科目遺族が確認、または判断する死没日被爆死状況および家族らの捜索状況45年末までに原爆で亡くなった家族=いずれも肉親遺族の証言と提供の記録、資料資料に基づく。年数は西暦(1900年の下2ケタ)。(敬称略)

名前  土居 昭子(12)
 安佐郡祇園町長束大芝小8月6日母靜江が7日朝から捜すが、遺骨は不明。大阪市で写真材料卸を営んでいた父三男が召集となった43年ごろ、母の郷里へ家族5人で移った。小網町一帯の建物疎開作業に動員されて爆心700メートルの土蔵の中で被爆、天満川に逃げて助かった崇徳中3年の兄和人は「戦時下に食べ盛りの子ども4人を抱え、母は食糧の確保に日夜頭を痛めていました。私は妹の分まで食べかねないような兄でしたので…。妹に申し訳ないの一語に尽きます」。

名前  中野 多佳子(12)
 広島市庚午町己斐小8月6日父琢二が病死していたため、自宅にいた母コウと、動員されていた爆心1・3キロの大東亜食糧興業で被爆した市女専攻科の姉公枝が捜すが、遺骨は不明。姉は「母は戦後の復興時に『多佳子に白いご飯を食べさせてやりたかった』と、だれに言うともなしに口にしていました。42歳でもうけた6人姉妹の末っ子だった妹への思いはとりわけ強く、17年前に他界するまで欠かさず市女慰霊祭に参列しました」市女出身で、爆心120メートルの大手町2丁目(中区紙屋町2丁目)の三和銀行広島支店に勤務していた姉良子(ながこ)(20)の遺骨は不明。

 長岡 艶子(12)
 広島市三篠本町3丁目(西区)大芝小8月6日遺骨は不明。埼玉県の陸軍士官学校にいた兄常範は「父税三は召集され、三篠郵便局で被爆した母アキヨはガラスが突き刺さり、捜しに行けませんでした。復員後に、近所の奥さんから、子どもを捜しに中島の爆心地を通り掛かった際、真っ赤に膨れ上がった顔の妹が『おばさん、私は長岡艶子です』と呼び掛けたと聞きました」大芝小2年の弟滋彦(8つ)は爆心2・4キロの校庭で被爆し、運ばれた安佐郡伴村(安佐南区)の親類宅で10日死去。

名前  信本 艶子(13)
 広島市三篠本町2丁目。母や妹と疎開していた高田郡三田村から通っていた大芝小8月6日母タヅが7日に向かい、安佐郡伴村に長男を連れて疎開していた父元一も続いて捜すが、遺骨は不明。当時4歳だった妹和子は「母から、姉は市女にはプールがあり泳げると、とにかく学校生活が楽しくてしようがなかったと聞いています。『空襲があっても自分の身は守れるが、妹は小さいからすぐに連れて避難して』と気遣っていたそうです。3人きょうだいの一番上でした」。

 林 和子(12)
 広島市三篠本町3丁目大芝小8月12日全身やけどを負いながらも爆心2・5キロの自宅を目指し、己斐方面をう回してたどり着くが、焼失していたため母政子らの避難先を聞き、被災者が集まった三滝町の竹やぶで12日死去。大野陸軍病院(佐伯郡大野町)に入院していた叔父正雄は「6日夕帰ってきた時は意識もしっかりしており、作業が休憩となって、いとこの宝積愛子(注・2年3組)と一緒にいたところを吹き飛ばされたと話したそうです。義姉たちは陸軍病院三滝分院に運んだところ、どうにもならんと言われ、近くの竹やぶでみとったわけです。最期は『水を、水を』と求めたといいます。私の兄になる和子の父は米国生まれで、小学校へ上がるころロサンゼルスから母親や妹と祖父がいた広島に来ました。兄は戦争中は収容所に入れられ、家族は戦後に米国へ戻り、和子はこちらの墓に埋葬しています」。

名前  原 翠(12)
 広島市西白島町(中区)。家族で疎開していた安佐郡祇園町から通っていた白島小8月6日遺骨は不明。広島税務署直税課長の父本三郎は出勤途中の広島逓信局(中区東白島町)近くで全身やけどを負ったため、姉博子が9日から捜し、防空ずきんの切れ端を見つける。食糧調達のため防府市の母アサノの実家へ一緒に行き、6日夜に救護の軍用列車で戻った小学4年の弟毅は「母は危篤状態の父に付き添っていました。戦後の食糧不足の時代も、母はようかんなど貴重なものが手に入ると姉が生きていたころと同じようにきょうだいで3等分し、その一つを必ず仏壇に供え手を合わせていました。その背中を見て育ったので、原爆を軽々しく話すような気持ちにはなれません」。

 肥後 礼子(12)
 広島市己斐中町(西区)陸軍偕行社付属済美小8月6日母ハルが病死し、広島第二陸軍病院三滝分院長の父研吉は爆心2キロの分院近くで被爆。研吉と戦後に結婚した芳江は「礼子さんのなきがらは、軍関係の方かどなたかは存じませんが、作業現場跡で見つけたと聞いています。夫は私を気遣い原爆前後のことはあまり口にしませんでした。16年前に夫が逝った際、せめてもの慰めにとハルさん、礼子さん、病死した姉雅子さんの3人の写真をお棺に納めて送りました」。

名前  福井 節子(13)
 広島市研屋町(中区紙屋町1丁目)袋町小8月6日引き取り手のない原爆死没者の遺骨名を伝えていたラジオを聞き、兄健二が市から受け取る。敗戦の翌年に復員した兄は「原爆から14、15年たっていたと記憶しています。私が兵隊に出た翌昭和19年に母アサヱが他界し、妹は何かと大変だったと思います。市女入学を手紙で知り、隣の細工町に住んでいた市女出身の叔母に妹のことを頼んだ矢先、叔母も被爆死しました」漆塗り師の父節二(51)は爆心400メートルの研屋町内の防空業務に就き爆死。防衛召集された兄稔(18)は駐屯していた爆心1・1キロの広瀬小で下敷きとなり、9月3日死去。爆心直下の細工町にいた叔母木村康子(24)は爆死。

 松原 英子(13)
 広島市三篠本町3丁目大芝小8月6日爆心2・5キロの自宅で被爆した鉄工所経営の父雅夫が7日から捜すが、遺骨は不明。3月に市女を卒業し、安芸高女に移っていた県調査課に勤め被爆した姉千代子は「原爆から5年後に結婚した私が、実家を訪ねると仏壇に木箱が置いてありました。開けると中には指と思われる細い骨が2本と、血やうみが混じり茶色くなった妹の名札がありました。似島のお寺に保管されていたそうです。両親は開ける気になれず、届いた後もそのままにしていました。英子の遺骨を見た両親はたちまち泣き崩れ、私も妹はどんなにかつらかっただろうと思いました」。

名前  三浦 圭子(12)
 広島市荒神町(南区)。家族で疎開した安佐郡古市町から通っていた荒神小8月6日父繁之が6日、自転車で市女に向かう。動員現場を聞いて新大橋(現在の西平和大橋)の東詰めで名札から長女の遺体を確認。古田町高須の広島航空に動員されていた広島一中2年の兄一成は「翌日、母フミヨが用意した妹の着物や、ひつぎを大八車に積んで父と行きました。兵隊から遺体の損傷がはなはだしいので持ち帰ることはできないとの指示があり、その場でだびに付し、骨の一部を新大橋の上からまきました。妹はそれはむごい状態でした。戦争とは戦地に行っている者だけのことではないと思います」。

名前  三上 靜子(12)
 広島市三篠本町2丁目三篠小8月6日自宅にいた父義行と、近くの製針工場で被爆した母やすゑらが作業現場の寺跡で「三上」と名前を書いていたズックを納める。遺骨は不明。91歳になる母に代わり、自宅で被爆した小学3年の榮子は「母は原爆のことは口で言っても全然違うと話したがりません。土の中から首だけが出ていた遺体を掘ったりもしたそうです。姉は疎開を勧められると『兵隊さんに悪いし、お国のため尽くさんといけん』と子どもなりの決意を見せ、日本必勝を近くの氏神さんに拝んでは出ていました」。

 三井 泰子(たえこ)(13)
 広島市古田町古江己斐小8月6日母龍子と古田小校庭で被爆した5年の弟正實が9日、作業現場西側の本川土手で名札から遺体を確認。弟は「うつぶせに死んでいた姉をリヤカーに乗せて母が引っ張り、私が押して帰りました。海軍主計大佐だった父正義は3年前に病死していました。自宅近くの公園で姉を火葬する時には、姉との思い出が込み上げてきて、声を上げて泣きました」市女を卒業し、中国海軍監督官事務所に勤めていた姉禮子(18)は、爆心200メートルの広島銀行集会所(中区大手町2丁目)にあった事務所に出て、遺骨は不明。

名前  森本 幸惠(13)
 安佐郡祇園町南下安祇園小8月13日被爆の瞬間に目を押さえ、視力があった3人と県庁そばの万代橋まで逃げる。一人が倒れ、残った二人で元安川に下りると、その友達も「死ぬる」と倒れる。気がつくと軍の船で似島へ運ばれていた。母トキ子が二女の誕生日である9日に再会し、救護所となった佐伯郡の八幡小で13日死去。姉ミチ子は「父の火葬を済ませた8日、小学校の先生から似島にいるとの連絡がありました。妹は『お父ちゃんはどうして来ないの』と母に尋ねたそうです。八幡小では家族や小学校、市女の先生、友達の名前を一人ひとり呼び『長らくお世話になりました。お先にゆきます。さようなら』を繰り返し、『南無阿弥陀仏』を唱えつつ息を引き取りました。最期に、母は『戦死したお兄ちゃんや、お父さんのところに行きなさい』と初めて父の死を伝えました」自転車商の父孫三(48)は基町の中国憲兵隊司令部へ自転車修理に出て被爆し、大八車で運ばれた自宅で7日に死去。

名前  安村 和子(たかこ)(13)
 広島市己斐町己斐小8月8日自力で戻るが、父留之助は陸軍船舶司令部で、母コハルは五女を連れて行った赤十字病院で被爆したため、軍のトラックで佐伯郡観音村の救護所に運ばれて8日午前11時47分死去。92歳になる母は「近所の人がおっしゃるには、娘は両腕の皮が垂れ下がり、裂けた肌着がわずかにこびりついた格好で『私は安村和子です』と言ったそうです。あまりにもむごい姿を布団で包んでくださり、通り掛かったトラックに乗せられたと聞きました。どこに行ったのか捜しても分からず、お盆のころ観音村の学校に遺骨を取りにくるよう連絡がありました。必死に戻って来た娘を抱き締めてやれなかった。この年になってもさいなまれます」。

名前  山岡 栄子(12)
 広島市己斐町己斐小8月6日造園業の父昇が6日に向かい、母マサヨも7日から帯とはんてんを携えて捜すが、遺骨は不明。実家で3歳の長男と被爆した姉岩城イツエは「私が市女があった舟入川口町にいたころ、毎日のように寄っては、おいになる長男に『行ってくるからね』と声をかけていました。6人きょうだいの末っ子だったので、弟のようにかわいがっていました。当日朝は頭が痛く休みたいと申しましたが、召集されていた兄3人のことを母が言うと、胸の高さまであるシャベルを担いで行きました。母は10年前に他界するまで折に触れては『私が死なせたようなものだ』と嘆いておりました」。

名前  横山 宏子(13)
 広島市横川町1丁目三篠小8月6日安佐郡祇園町の親類宅を訪ねていた材木店経営の父健三が戻り捜すが、遺骨は不明。山県郡筒賀村へ縁故疎開していた小学5年の弟俊朗は「3年前に他界した父健三は、私あての姉のはがきを大切に残していました。幼かったためおぼろげな記憶しかありませんが、姉が私をかわいがってくれていたのを感じます」母芳子(34)は自宅近くで爆死し、夫が8月末ごろ焼け残っていた着物の柄から遺骨を確認。

名前  芳村 美恵子(13)
 広島市己斐町大手町小8月6日陸軍船舶練習部で被爆した部隊長の父正義が死体検分の指揮に出た10日、元安川の土手で二女を確認。船舶教育兵団司令部にいた兄泰輔は「処理される直前に偶然見つけたそうです。父は『多くが黒焦げなのに美恵子は顔にも傷はなかった』と話しました。多分、被爆後すぐに川に飛び込んだのだと思います」。広島市の『原爆戦災誌』第1巻総説によると、芳村正義中将は原爆投下直後、現在の南区宇品東5丁目にあった練習部の門を開けて負傷者の収容を許可し、12、13日ごろ似島の軍防空ごうに死者の一時埋葬を命じた。

名前  若山 和子(13)
 広島市己斐町己斐小8月6日徴用で呉海軍工廠の寮に住み勤めていた父幸雄が7日から捜すが、遺骨は不明。祖父母との3人暮らしだった。世羅郡東村に集団疎開していた小学5年の弟輝雄は「原爆の3年前に母が病死したため、西新町(中区土橋町)から祖父母がいた己斐へ移りました。母が危篤に陥った時、まだ小学4年の姉が2級下の私を教室まで呼びにきて、病院へ連れて行ってくれました。思い起こせばしっかりした姉でした」。

 【詳細不明】
 梶川 洋子
 野神 明美
 山本 貞子
 吉田 敬子


1組 2組 3組 4組 6組 教員 新たに確認された死没者名簿 昭和20年8月6日罹災関係 経過日誌 1年5組入多正子さん 妹あての手紙