2000/6/22
「昭和廿年八月六日罹災関係 経過日誌」
市女の後身になる市立舟入高校(49年発足)には、表紙に墨で「昭和廿年八月六日罹災関係 経過日誌」と書かれた約40枚のつづりが保存されている。未曾有(みぞう)の混乱当日から授業再開後の10月17日までを当時の教師たちが交代で連日記した。1、2年生の大半が亡くなる広島原爆で最大の犠牲者を出した学校の被災誌の主要部分を原文のまま紹介する。
八月六日 △付添教諭 繁森、重松、横山、砂古、森、溝上、八林(順序不同) △一二年出動概数 約五百名? 欠席者モカナリ有ル見込 状況 △八月六日午前八時過(ぎ)敵大型機三機ト思ハルゝモノ廣島上空ニ飛来、新型爆弾落下傘附ノモノ投下(注・落下傘付きは計測器) 着地前空中ニテ炸裂ス 炸裂状態詳(つまびら)カナラザレドモ各状報ヲ綜合スルニ空中ニテ炸裂 強烈ナル光線放射 一、二分後之亦(これまた)強烈ナル爆裂アリ(略) 学徒退避状態及(および)其(そ)ノ経過 多クハ現場ニ失明状態ニテ悃(昏)倒(こんとう)或(ある)イハ家屋下ニ至リ下敷キ乃至(ないし)ハ新橋、新大橋ニ向ヒ水ヲ求メテ移動、河中ニ飛ビ込ム、壕(ごう)ニ入レル者又(また)多ク、水槽ニ入レル者尠(すくな)カラズ、河川ニ朔航(そこう)セル六一四〇部隊(注・野戦船舶本廠)発動機船ニ収容 似島ニ搬送サレシ者少数算セラル、但(ただ)シ生存者ハ三、四名ニ止マリ付添教員ノ消息不明(略)夕方ニ至レルモ火焔(かえん)熱風ニテ近着ケザル状態ナリ、一、二父兄ノ語ルトコロニヨレバ六日夕ニハ未(いま)ダ救護ヲ求ムル声各処(ところ)ニ有リシトカ 尚(なお)、本件中特記事項トシテ左ニ記シ第一日ノ記録ヲ終(わ)ル 罹災厖大(ぼうだい)ニシテ到底助カルアタハザリト悟(さと)シタル本校学徒ハ 殊勝ニモ天皇陛下ノ万才ヲ三唱シ 君ガ代ヲ静カニ歌ヒツゝ、冥黙(めいもく)セリト(略) 八月七日 晴 八月八日 晴 八月九日 晴 八月十日 晴 八月十一日 晴 八月十二日 晴 八月十四日 晴 八月十五日 △ポツダム宣言ヲ帝国政府受入レルコトヲ米、英、ソ、重慶政府ニ通告(九日)十四日ニ勅語発布 遂ニ帝国政府降服シ一先(ひとまず)戦争休止(略) 九月一日 曇時々雨 《学校の再開後、出席できた全校生徒は5日時点で64人。うち2年生は4人、1年生はいなかった》 十月十日(火曜日=注・正しくは水曜日)雨 十月十五日 月曜日 晴 《遺族と級友たちが参列した慰霊祭は10月30日、雨漏りがする講堂で営まれた。遺族たちは墓標を被災地に建てたのに続き、被爆3年後の48年、舟入川口町(中区)の校内にいち早く慰霊碑を建立。碑は13回忌に当たる57年、現在の元安川右岸に移設。舟入・市女同窓会により85年、1年生277人、2年生264人をはじめ生徒666人と職員10人の計676人の名前を刻む銘碑ができる》 1組 2組 3組 4組 5組 6組 教員 新たに確認された死没者名簿 1年5組入多正子さん 妹あての手紙 |