第2部 あの日を刻む 1

アナや児童 切々と
朗読で悲劇を追体験


原爆の炎の熱さ、焼かれた体の痛み、家族と引き裂かれた悲しみ、戦争への怒り…。被爆者や遺族の高齢化が進むなか、あの日の体験を世代を超えて心と記憶に刻むには、どうすればいいのだろうか。被爆地での新たな取り組みを中心に、伝えることの意義と課題を考える。

 「黒い大粒の雨に打たれ、子どもは死んでしまいました。ただ抱きしめてやるだけで、『ごめんね』と言うのが精いっぱいでした…」
 元アナウンサーたちが被爆者の手記を読み上げる。六月二十三日、広島市中区の平和記念公園にある国立広島原爆死没者追悼平和祈念館。近くの市立中島小の五年生五十二人が、じっと聞き入った。

元アナウンサー(左手前)のアドバイスを受けながら、原爆詩を自ら朗読する中島小の5年生。あの日の情景を思い浮かべる
(撮影・田中慎二)
 時折目を閉じ

 情景を思い浮かべようとするのか、時折、目を閉じて聞く子どもたち。「泣きそうになったね」と友達と感想を言い合った。
 読まれた手記は、福岡市東区の田辺イサノさん(85)がつづった。爆心地から一・二キロ、広瀬北町(現中区)で自宅の下敷きになった。抱いて逃げた二女温子さんは間もなく、たった十カ月の短い生涯を閉じた。
 そんな体験を田辺さんは二十年余り、移り住んだ福岡市内で子どもたちに話してきた。手記を執筆したのは九年前の被爆五十周年のとき。数行ごとに涙しながらつづったけれど、「微妙な感情は表現しきれない」と思ったという。
 しかし、つえを手放せなくなり、三年前から証言活動はできなくなった。そんな自分の手記が今回、朗読されると聞き、「原爆で苦しんだ人がいたことをくみ取ってほしい」と願った。真剣なまなざしだった子どもたちの様子を聞き、喜んだ。
 読み手は、地元の民放に勤めていたアナウンサーたち十人余りでつくるグループ「ひろしま音読の会」のメンバーだった。会は毎年夏、朗読劇「この子たちの夏」を上演するなど、原爆の悲惨さを語り伝える活動を続けている。追悼祈念館が、十万件を超える収蔵体験記を活用しようと朗読会を試みると聞いた時も、出演依頼を快諾した。

 「情景を想像」

 代表の藤本佳子さん(68)=中区大手町=は鳥取市出身。原爆のことはさほど知らなかった。二十年余り前、講師をしていた話し方教室に、六十歳代のある女性が習いにきた。路面電車内で被爆したその女性は、炎に焼かれた風呂敷を持参し、体験を話してくれた。藤本さんは思わず、布団をかぶって松林に避難した戦時中の千葉県での空襲体験を思い出した。
 「体験者でないと本当の様子は分からない」と藤本さん。でも同時に、それぞれが意識的に追体験を試みることで、あの日に少しでも近づくことができると信じている。「情景を想像できれば、平和の大切さは感じられると思う」
 ただ単に聞くだけではなく、自分で声に出して読めば、より深い追体験ができる。そう思って朗読会では、子どもたち自身に原爆詩を朗読させてみた。体験が、時間と世代を超えてつながっていく手応えを覚えた。




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2004/7/21