第2部 あの日を刻む 5

二世が話す
世代間つなぐ役割担う


 気温三三・九度の炎天下、せみ時雨に負けまいと主婦上本全代さん(48)=広島市西区=が声を張り上げた。「この木は原爆の熱風にも耐えたのです」。爆心地から一・七キロ、中区の千田小の校庭。青々とした葉を揺らす四本のクスノキを、東京から平和学習で来た十人の高校生が見上げた。

千田小の被爆クスノキの前で、高校生に「59年前」を語る上本さん(左端)(撮影・山瀬隆弘)
 「身内こそが」

 上本さんは被爆二世だ。五十九年前、父(72)は原爆で全身にやけどを負った。両親や知人が「あんたはどこでピカにおうたん」などと会話するのを聞きながら育った。父に面と向かって体験を聞いたことはなかったけれど、「原爆には人一倍詳しい」と自負していた。
 しかし一九八八年、生協ひろしまの碑巡りガイドボランティアに誘われて臨んだ学習会。自分よりはるかに詳しく、慰霊碑や被爆建物について語る関西弁を耳にした。「地元の人が、身内こそが伝えないといけない」。以来、被爆手記を読んだ。国際情勢を伝える新聞やテレビニュースに敏感になった。
 月に二日程度、中高校生たちを案内する。耳を傾けてくれる若者たち、老いが目立ち始めた父、そして自分自身の存在。重ね合わせて考えると「二世への期待がますます膨らんでいる」と実感する。世代間を「つなぐ」役割が、自分たちにはあるのだと。父にも少しずつ、つらい思い出を尋ねるようになった。
 原爆資料館(中区)を案内して回る「ヒロシマ ピース ボランティア」の長谷川桂子さん(39)=廿日市市住吉=も被爆二世だ。六年前の夏、当時六歳の双子の息子と資料館を訪れた。おびただしい被爆資料を見て、「ヒロシマ人なのに、子どもに何も説明できない」との思いがふつふつと込み上げたという。「未来を奪われた犠牲者たちの無念を語り継ぐ立場に私はいる」。翌年から活動を始めた。

 語り方を模索

 週に一回、館内に立ち、被爆資料を背にして来館者に当時の様子や時代背景などを解説する。「私たちが何かしないと後世に伝わらない」と気持ちははやる。一方で、悩みも尽きない。父(71)たちの被爆の苦しみが果たして、きちんと伝わるのだろうか、聞いた人の心を打つのだろうか、何をどう語れば説得力があるのだろうか。
 まっすぐに父と向き合って体験を聞いたことはない。思い出させては酷かなと気が引けてきた。「将来、子どもたちに話してあげて」と頼むのが今のところ精いっぱいだ。
 三次市三良坂町で約百十人の被爆二世のまとめ役を務めてきた電気工事業田口正行さん(47)は、自分たちの言葉では被爆は語りにくいと思い、父母の体験記の朗読会などを重ねてきた。
 今はこう思う。「原爆は六十年近くたっても父や母を苦しめる。それを間近で見て育った自分たちが、親の姿と自分の思いを率直に語ればいい。それで二世の役目は果たせるのではないか」と。




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2004/7/26