第2部 あの日を刻む 2

CGにする
街の記憶 息遣いを復元



 本堂前に桜があった。墓所でよく鬼ごっこをした。郵便局や商店が立ち並ぶ繁華街の一角。「お不動さん」と呼ばれた寺の境内は、近所の人たちが毎日のように散策していた―。東広島市西条町の青山念海さん(75)が、五十九年前の記憶を手繰り、話し始めた。

 元住民が協力

 十三日、広島市南区の広島大原爆放射線医科学研究所(原医研)。青山さんが、細工町(現中区大手町一丁目)の再現地図から、かつて住んでいた西蓮寺を探す。寺は当時も今も、広島県産業奨励館と呼ばれた現在の原爆ドームのすぐ東、原爆の爆心直下だった。
 三時間に及んだ思い出話。感謝するスタッフに青山さんは頭を下げ返した。「ごめんなさいねえ、要領が悪くて。これまで本当に、記憶にふたをしてきたから」
 あの日午前七時すぎ、寺を出た。学徒動員先の南観音町(現西区)の三菱重工業広島機械製作所で被爆した。戻ってみると、庫裏があった辺りの台所と思われる場所に、横たわる骨があった。出掛けるとき、ここで休んでいたのは母ヒサコさん。「近所の友だちもみんな死んだ。つらくてとても人に話せなかった」
 三年前、弟をがんで失ったのが転機だった。同じころ、中区の映像会社社長田辺雅章さん(66)から、原爆で消えた懐かしい細工町を、コンピューターグラフィックス(CG)でよみがえらせる計画を聞いた。名付けて「ヒロシマ・グラウンド・ゼロ(爆心地)」プロジェクト。原医研や他の大学の研究者も交え、デジタル映像で爆心地の復元に挑む。細工町の元住民の協力が必要と聞き、青山さんは証言を買って出た。

西鶴さん(左端)や米田さん(中央)に、細工町の思い出を語る青山さん
(撮影・福井宏史)
 若者が聞き手

 聞き手は、戦争も原爆も知らない若者たち。田辺さんの会社に勤め、今回のプロジェクトのマネジャー役を担う米田千春さん(24)=西区=は二〇〇一年九月十一日、米中枢同時テロの「グラウンド・ゼロ」から約五キロの場所にいた。
 二棟の超高層ビルが消え、人もにぎわいも失った。そんなニューヨークで、地元広島を思ったという。「原爆で何が消え、何を失ったのか。今の平和を築いた、想像を絶する犠牲とは、いったい何だったのか」。昨春の入社後、五十人以上の被爆者の声に耳を傾けた。生まれた時より、さらに三十五年も前のこと。疑問が解けないもどかしさと、それでも「後世に伝えなければ」との焦りとが入り交じる。
 パソコンを使ってCGを作成するのは広島工業大大学院一年の西鶴英之さん(22)=中区。「とにかく皆さんの記憶を忠実に再現したい。原爆で消し飛んだ建物や人、地域のすべてを」。すでに十人以上の元住民から話を聞いた。隣近所が声を掛け合い、町全体が一緒に生きていた爆心地細工町。コミュニティーの濃密さを再現したいと張り切る。




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2004/7/22