第2部 あの日を刻む 3

兄が語る
「和」の心 貫いたサダコ


 小学生のサダコは走るのが速かった。リレーのアンカーだった。五十メートル走は七秒四―。子どもたちはそんな話に親しみを覚えるのか、身を乗り出して聞いた。
 広島で被爆して白血病を患い、回復を信じて鶴を折りながら、十二歳で亡くなった佐々木禎子さん。世界に知られる妹サダコの素顔を知ってほしいと、兄の雅弘さん(62)=福岡県那珂川町=が六日、自分と妹の母校である幟町小(広島市中区)で講演した。被爆地で大勢が集まった前で、妹を語るのは初めてだった。
 妹が入院したのは、この小学校に通っていた六年の時。両親が楠木町(現西区)で営んでいた理髪店の散髪代が大人百四十円だったころだ。当時、百CCの輸血に八百円、血液の流れをよくする注射に二千百円かかったという。


幟町小の児童に妹の最後の折り鶴を見せ、「家で折ってみてね」と語り掛ける佐々木雅弘さん=右端
(撮影・宮原滋)
 家計を気遣う

 「とうちゃん。私、お見舞いの二百円があるからね。お金はいつでもいいからね」。注射代を心配し、サダコは自宅に電話して家計を気遣った。入院中も決して「痛い」と口にしなかった。涙を見せたのは一度だけ、母フジ子さんが病院から家に帰ろうとする時だった。兄は間近で見ていた。
 幟町小に雅弘さんは、妹が最後に折った薬包紙の鶴を持参した。のぞきこんだ児童は「大きい折り鶴を作って、平和公園に届けるからね」と語り掛けてくれた。サダコの死を機に建てられた原爆の子の像が平和記念公園(中区)にあり、世界から折り鶴が届くことを、児童はよく知っている。
 今になってなぜ、妹を語るのか―。雅弘さんは淡々と「家族や友だちを思いやるサダコの心を伝え残したい」と言う。
 爆心地から一・六キロの楠木町の自宅で妹と一緒に被爆し、逃げる途中に黒い雨に遭った。だが、四歳だった自分には断片的な記憶しかなく、被爆の体験は語りにくい。

 等身大で実感

 しかし、妹の生き方、闘病生活を語ることはできる。父の繁夫さんは十年ほど前から、九州の小中学校などで講演を続けた。自分も美容院経営の傍ら同行して、話してきた。子を失った親の悲しみを語った父は昨年二月、八十七歳で亡くなった。妹を一番よく知るのは、自分になった。
 しかも、今年は妹の五十回忌。郷里の広島でも伝えなくてはと思った。幟町小に続き、翌日にかけ市内の三小学校を回った。「君は五十メートルは何秒なの」。児童たちと対話を続けた。
 安東小(安佐南区)では三年生以上の約四百人が聞いた。子どもたちは「家が貧しいのを知っていて、わがままを言わなかったのですごいなあと思った」と正直な感想文をつづった。
 有名なサダコは自分たちと同じ世代だったと、等身大で実感してくれたことが、雅弘さんにはうれしかった。「妹の生涯は周囲を思いやる『和』の大切さを教えてくれる」。そんな確信を強めた。




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2004/7/23