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原爆孤児の暮らし克明 広島戦災児育成所、草創期の日誌公開 '07/8/1

 米国が投下した原爆で親を失うなどして孤児になった子どもたちが集団生活した「広島戦災児育成所」の草創期の様子を伝える「育成日誌」が三十一日までに、広島市公文書館(中区)で閲覧できるようになった。日誌は一九四五年十二月二十三日、広島県五日市町皆賀(現広島市佐伯区)に育成所が設立されてから四八年三月末までの二年余り、ほぼ毎日の日課や食事内容、子どもたちに接した教職員の心情を克明に記録している。

 育成所の設立当初の運営ぶりを詳細に示す文献が一般に公開されるのは初めて。孤児たちの戦後の歩みをたどる意味でも貴重な資料である。

 日誌は計七冊。A4判のザラ紙を使い、教職員がペンなどで手書きした。ひもで結わえてある。

 設立当日の四五年十二月二十三日の記述によると、午後七時ごろ七人の戦災児が育成所に到着。教職員は、あめやミカンを与えた。育成所の設立者で所長を務めた浄土真宗僧侶の山下義信氏(八九年に九十五歳で死去)が教職員に訓示した。

 その後も、育成所の日々の出来事を丹念に記録している。食事の献立からは、混乱期の厳しい食料事情や、周囲から相次いだ支援の様子もうかがうことができる。児童と寝食を共にして学業や生活の世話をした教職員たちは、「子育て」に戸惑いつつ、健やかな成長を願う率直な心情をつづっている。

 日誌は、育成所内に四八年三月まで設置された幟町国民学校(現中区の幟町小)分教場の訓導(教員)だった斗桝(とます)正氏(後の幟町小校長)が自宅で保管。九三年に八十歳で亡くなった後、長男輝之さん(66)=南区=が市公文書館に寄贈した。長く未整理だったが、記載された個人情報の保護作業を終えて閲覧請求に対応可能とした。

 育成所をめぐる資料はほかにも、部門別日誌や関係者名簿、山下氏が個人的に書き残した「育成の若干の記録」を山下氏の遺族が所蔵。九九年に原爆資料館(中区)が目録化している。

 市公文書館の高野和彦館長は「育成所の理念や関係者の営みを具体的に示す生の資料。孤児たちが歩んだ道のりを研究する上で、非常に貴重だ」と話している。(石川昌義)

※広島戦災児育成所※

 後に参院議員も務めた故山下義信氏が県農業試験場跡に私財を投じて開設。主に学童疎開で広島を離れていて、被爆した親と死別するなどした孤児を育てた。財政難もあって1953年、広島市に移管され市戦災児育成所となった。60年、市童心園に改称。67年に閉園されるまでに、巣立った子どもは312人に上る。跡地には現在、市立の知的障害者施設がある。

【写真説明】孤児や教職員の苦闘の歩みを記し、広島市公文書館が保管している「育成日誌」(撮影・今田豊)


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