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被爆死した級友の足跡追う 旧制崇徳中出身の故竹村さん '07/8/5

 「ベルトで確認」「遺骨見つからず」―。あの日、建物疎開作業中、ほとんどが被爆死した旧制崇徳中(現崇徳中・高)の級友たちの最期を、死の間際まで調べ続けた人がいる。昨年、七十三歳で亡くなった竹村伸生さん。記録は友人の石田晟(あきら)さん(75)=廿日市市=によって原爆資料館(広島市中区)に届けられた。「悲惨さを伝える資料を埋もれさせてはいけない」。同じく級友を追い続ける石田さんは巡り来る「あの日」を前に思いを新たにする。

 廿日市市に住む遺族から託され寄贈したのは、手書きのリストをとじたファイル二冊とノート一冊、聞き取りメモなど。ファイル表紙には「崇徳中学被爆死の記録」などと記され、級友の最期が克明にメモしてある。死亡日時、場所とともに「内臓破裂」「横川で焼死」などが緻密(ちみつ)な文字で書き込まれている。「整理したら資料館に」と生前、話していた竹村さん。しかし、竹村さんの死で記録は途中で止まった。

 竹村さんと石田さんの出会いは約三年前。石田さんが旧制市立中(現基町高)の同窓生が逃げまどった道のりを調査しているのを知った竹村さんが調査のやり方を教えてほしいと訪ねてきた。

 被爆五十年の一九九五年ごろから調査を始めた竹村さんは、石田さんとの出会いでピッチを上げた。当時の資料を参考に電話帳で同じ姓を調べ、片っ端から電話で遺族を捜した。四国に出掛けて直接聞き取りをしたこともある。石田さんは「級友たちの壮絶な最期を知り、気が重くて作業は進まなかったようだ。供養行脚のつもりだったのか…」と振り返る。

 竹村さんを駆り立てたのは生き残った自責の念だった、と石田さんは言う。崇徳中の一、二年生は学徒動員で建物疎開作業に出掛け、爆心地から約八百メートルの八丁堀(現中区)で被爆。竹村さんは前日の作業で負傷したため、トラックの陰で荷物番をしていた。作業をしていた四百人以上が犠牲になり、生存者は数人しかいなかった。

 資料の量から、調査に取りかかっていたのは犠牲者の半数以上に達していたとみられる。データ整理を手伝うつもりだった石田さんは「手書きのリストに圧倒された。竹村さんの調査を次代に伝える活用を期待したい」と話す。

 竹村さんの母校、崇徳中・高校の鳴川則弘校長は「学校だけのものでなく人類の財産」とし、遺族や子どもたちに資料の存在について話したいという。(森田裕美)

【写真説明】<上>竹村さんが級友の最期を記した調査資料。原爆資料館に寄贈された<下>原爆慰霊碑の前で、竹村さんの思い出を語る石田さん


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